雑記帳


1、心の時代かな? 2、みんな違ってみんないい 3、ピカピカの1年生
4、難しい青年期 5、将来不幸になるよ 6、生まれつき
生まれつき


長男は、親の私が言うのもおこがましいのですが、とても整った顔立ちをしています。
生まれた病院で看護婦さんたちに「美男子」と言われたのを皮切りに、今まで8年間、顔については様々な賞賛をあびてきました。

でも、長男のほほには、直径4センチ位の白いアザがあります。
メラニン色素がぬけているそうで、冬は目立ちませんが、日焼けする季節になると、その白い部分とのコントラストが強くなって、白いアザが大変に目立ちます。
日焼けの季節には、初対面の人は、「白い部分」の存在が気になるようです。
小さい頃から、長男には、「神様がつけた生まれつきのマークよ」と教えてきました。

いつも「どうしたの?」と聞かれ続けたためでしょう。
幼稚園の頃から、初対面の人には聞かれる前から、
「顔の白いのは、生まれつきなんだ」と自分から紹介するようになりました。
幼稚園のお母さん方から、聞かないのに教えてくれた、とよく言われました。
そして小学校に入った時も、率先してそうしたようで、上級生からは「生まれつき」というあだ名までつけられたようです。

2年生の時に「生い立ちのアルバム」を学校で作りました。
小さい時からの写真も何枚か貼っていたので、お友達の感想欄には、
「1才のときから、生まれつきが見えたよ」
「小さいときから白いあとがあるんだね」
と、このことについて書かれていました。
長男が肯定的にとらえているので、まわりの友達も暖かく受け止めてくれていて、よかったなと思いました。

でも時には、からかわれることもあるようで、アザがない弟の顔を見ながら、
「○○くんは、生まれつきがなくて、いいな」
「神様のマークなんか、いらない」と悲しそうな顔をすることがあります。
白いアザを受け入れてはいても、やはり嫌な気持ちになる時もあるのでしょう。

私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。
 それは、私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
 このことについては、これを私から去らせて下さるようにと、三度も主に願いました。
 しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。
 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。
 ですから、わたしは、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
             (Uコリント12:7〜9)


長男の顔を見ると、この白いアザがなかったらよかったのにと、思います。
成長と共にうすくなるかなと期待しましたが、ますます日焼けするようになったので、さらに目立つようになりました。
でもみことばにたって考えるとき、この白いアザ、くびきは、神様が与えてくれたプレゼントとして受け止めたいなと思います。
長男は明るく振舞っていますが、このアザはやはり長男にとっては「痛み」だと思います。
この「痛み」をもっているからこそ、この「弱さ」があるからこそ、痛みや弱さを知っていくことができるでしょう。
アザがなく、人から誉められるだけで高慢になるより、痛みや弱さを経験できる方が、とても貴重なように思います。
 
様々なくびきの中で、この長男のくびきは本当に軽いものだと思います。。
重い重いくびきを与えられながら、そのくびきをプラスに働かせて、深みのある人生を送っている方々が沢山いらっしゃいます。
重いくびきは、重いくびきを受け止められる器のある方にしか、与えられていないように思います。

弱い私たち親子には、このくびきが適当と主が憐れまれたのでしょう。

長男がこのくびきをプラスに変えて、深みのある人生を歩んでいけたらいいなと思います。



将来不幸になるよ
「○○たら、将来不幸になるよ」
最近我が家で、子どもたちと呪文のように交わされている合言葉です。
○○には、「欲しいものをすぐに手に入れ」が入ります。
「欲しいものをすぐに手に入れたら、大人になって不幸になるよ」です。

テレビや雑誌で次々と新しい玩具の紹介がされ、手に入れても手に入れても、子ども達の心が満足することがありませんでした。
私はこの状況をとても憂えていました。そんな時、子どもが小学校から、文部省発行の「家庭教育ノート」をもらってきました。
その中に「子どもを不幸にしたいなら、何でも買ってあげればいい」というページがありました。
「安易にモノを買い与え過ぎると、子どもは欲しいモノを手に入れるために努力したり、我慢したり、工夫したりすることができなくなります。そして、やたらとモノを欲しがり、自分の気持ちを抑えられなくなってしまいます。・・・」
このページを子どもと一緒に読みました。
そして丁度その時に、子どもの頃に欲しい玩具を全部手に入れて、わがまま放題に育てられていた人が、大きな犯罪を犯したという報道がありました。
そのこととあわせて、このページの「不幸になる」という言葉が、子どもの心にグサリと入り込んだようです。
それから、何か欲しがると、「欲しいものをすぐに手に入れたら、大人になって不幸になるよ」と親子で言い合います。
そして、欲しいものを買うルールを作りました。
誕生日、子どもの日、クリスマスには、何か欲しいものが買ってもらえる。それ以外は、自分の小遣い(週に百円)をためて買う。おじいちゃんやおばあちゃんよりの臨時の小遣いは、お母さんと相談して使う。

「欲しい」という思いは、それまで通りに沸いてくるようですが、「不幸になると困るし」と言うと、その言葉をそのままに受け止めて、「うーん」とうなって、納得しています。
また、本当に欲しいものかどうか吟味できるようになったようです。「欲しい」思いは、何日も続かないことがはっきりしました。
自分で工夫して、欲しい玩具のようなものを作って、もう買わなくてもいいと、満足した時もありました。
買いたがった時には、あえて小遣いの前借りをさせ、何週間もの不自由さを味あわせました。

子どもの日におじいちゃんやおばあちゃんに、沢山の玩具を買ってもらった後には、「不幸になったらどうしよう」と心配までしていました。
この発想を自分だけにとどめず、まわりのお友達にまで適用してしまうことは、ちょっと困った所です。
すぐに欲しいものを買ってもらえる友達が多いようで、おせっかいな長男は、「そんなん、不幸になるよ」と注意しているようです。また家に帰ってきて私に同意を求めます。

今は素直に私の言うことを受け止めれる年頃ですが、そのうち、そうではなくなる頃がくるでしょう。
それまでは、この「不幸作戦」を通していこうと思います。

最近の子どもには、「耐性」がないと言われています。
だから、私は子どもに、あえて不自由さを味わせたいと思っています。
がまんすることを経験する中で、えた時のよろこびを知ることができるでしょう。
「自分の思い通りにならない世の中」を積み重ねて経験していって欲しいと思います。

また、こういう中で、感謝する心も養っていって欲しいなとも思っています。
モノがあふれ、ありがたさを知りません。
当たり前の毎日の生活も、一つ一つが感謝の連続です。
朝日が昇ること、自分が生きていること、住む家があること、食事があること、どれもこれも感謝なことです。
無いものをえていくことより、当たり前に受けていることを感謝できるような子になって欲しいなと思います。
「すべてのことに感謝しなさい」
(Tテサロニケ 5:18)
日々感謝して歩める子は、将来どんな中をも幸せに歩んでいけると思います。





難しい青年期
教会で、公立高校の教師をしている方の、教育講演会があった。
現場の目から、高校生の実情が語られた。
私はマスコミ等を通して、漠然と高校生に対して、良くないイメージを抱いてはいたが、それは極一部の高校生たちに限ったものであり、大半の高校生は、健全な高校生活を送っていると思っていた。
しかし現実の高校生の全般が、大差はあるものの、心理面で病んでおり、苦しい中にいるということを聞いて驚いた。それが様々な形となって表面化しているそうである。

高校生の実情を、発達心理学を紐解きながら、解説されていった。
その説明のはしばしに「やはり乳幼児期が大切なんですよ」「お母さんとの関わり方が大切なんですよ」「お父さんの存在が大切なんですよ」というメッセージが感じとられ、チクチクと胸が痛かった。
生まれ出てから、乳児期、幼児期、学童期と親子関係を積み重ねていくが、その結果として青年期の様々な問題があらわれるということだった。どんな子育てをしたかによって、青年期の子どもの心理に大きく関係するそうである。
「そんな!うちはもう学童期に入ってしまったし、取り返しがつかない?」と、心が重くなってしまった。
が、最後に牧師先生がメッセージを語られた。
「難しい社会に、難しい子育てだが、だからこそ親が神を信じ、クリスチャンとして歩んでいくことに、回復の道がある」ということで、沈みかけた心に光を与えられたように思った。
いろいろと問題点を投げかけられ、子育てを立ち止まって考え直すことのできるひと時であった。

私自身をふり返るとき、母は私を愛してくれていたとは思うが、私にとっては健全な母子関係ではなかった。
幼い時より全ての面で「あんたはダメだ、ダメだ」と否定され続け、「まともな大人になれない、あんたの行く末がおそろしい」とよく言われていた。そのため何事にも全く自信がもてない暗い私であった。
発達心理学的に見るなら、私の育てられ方は、悪い部類であろう。

こんな思春期のわたしには、「死」が身近であった。
いつも自分の中にこもりながら、「自殺したい」と思っていた。
そんな中にあって、「あなたは、高価で尊い」といってくださる神様を、私は求めていった。
神様を求める道が、私に用意されていなかったら、現在の私は存在していないかもしれない。

青年期の心の鬱積、衝動は、発達上やむをえないもののようである。
そのカベを、どうやって乗り越えるかが、問題である。
その乗り越え方が悪かった結果として、最近続発する十七歳の事件があるのだろう。
講師の話では、スポーツなどに集中して、鬱積、衝動を発散させることが、有効とのことだった。
一般的には、そうなんだと思う。
しかし私はクリスチャンとして、また自らの経験から、神様に出会うことが、青年期のカベを乗り越えるための、有効な道だと思う。

子ども自身の素質も大きく影響しているだろうが、親の豊かな愛情と正しい価値判断の中で大切に育てられた子は、自分が価値ある人間であるという自尊心をもつことができ、青年期のカベが低いと思う。
そうでなく、自分の価値が見出せず、自分を大切にできない少年たちが、カベにぶつかって、自分の価値を間違った方向に追い求めていっているように思える。

世のものを通して自分の存在価値を見出すことは難しい。
唯一神様は、「あなたは、高価で尊い。私はあなたを愛している」と、自分の価値を教えてくれる。
その神様に出会い、神様の前で自分の価値を見出すことができたら、神様を支えとして正しく生きていけるのでは、と私は思う。
ただ、「神様に出会う」と言葉にすれば簡単だが、青年期は多感なだけに、その過程には多くの困難が伴い、一朝一夕に進んでいくことではないとは思う。

私は現在の信仰を、探り求める中で獲ることがてきた。
子どもも、自分なりに自分のやり方で、信仰を求め、獲ていって欲しいと思っている。
そのためには、親である私が神の前に真剣に立っていなければならないことを、いつも思わされる。
私が真剣に神様に仕えている姿を通して、子どもは感じとってくれるだろう。
親は、信仰を押し付けることなく、神に信頼し、背後で見守り、祈りを重ねていくことが大切なのだと思う。
ともすると、いい加減な私なので、クリスチャンとして子どもたちの前に立っている自覚を、忘れてはいけないなと思う。

心が病んでカウセリングを必要としている人がドンドン増えていっているそうである。
「社会が病んでいる」と表現されていた。
その病みをなおしてくれるのは、カウセリングも有効なのかもしれないが、私は神様の愛だと思う。
心に飢え渇きをもち、求めている人たちに、神様の豊かな愛を伝えていきたい。
若い悩み苦しんでいる人々に、人生の拠り所があることを、伝えたい。

心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りにたよるな。
あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
  箴言 3:5〜6




ピカピカの1年生

先日小学1年生の次男が、学校の広報新聞をもらってきた。
表紙は入学式の写真だ。入学生たちが椅子にきちんと並んで座っている。
その中の一番手前に、それはそれは、顔いっぱいに口をあけて、大あくびをしている子がいた。
「まあ、だーれ?」と思いながら、よくよく見ると次男ではないか。顔相がわからないほどの見事なあくびである。
広報の方も、こういう場でここまで堂々とあくびをする大胆さに感心して、あえてこの写真を選んだのだろうか?

でも、このあくびには理由がある。
入学式の前日に高熱が出た。夜眠る前には少し下がっていたが、寝苦しかったようで何度も何度も夜中に目を覚ました。
朝心配だったが、「入学式に行きたい」というので、「神様守ってください」とお祈りをして、無理を覚悟で出席させていた。入学式でなかったら、休ませていたと思う。
写真は式の終わりのほうのプログラムのものだったので、段段と緊張もほぐれてきて、眠くなってきたのだろう。あくびをしながらも、体調が悪い中頑張れたことを、ほめてやりたいと思う。
そしてその後体調が悪くなることもなく、元気に学校に通えていることを感謝している。

大アクビの新聞は、忘れられない入学式の記念となった。大切にとっておきたいと思っている。
こうして波乱の幕開けの小学校生活だったが、次男の初登校日も、幼い心を痛ませたようだった。
初登校が嬉しかったらしく、止めるのも聞かず、登校時間より何十分もはやく、兄と登校して行った。
教室に入っても、当然誰もおらず、ランドセルを机に置いて、兄と運動場へ出て楽しく遊んだらしい。
チャイムが鳴って兄が教室に戻るのと一緒に、一年生の教室にもどってみたら、まあ大変。
同級生たちは、ランドセルを自分の棚にしまい、緊張して席について、先生が来られるのを待っていたそうである。それまでに先生のいろいろな指示があったのだろう。そのため運動場に出た一年生は、はやく登校した次男一人だったのだ。
ランドセルを置く自分の棚がどこなのかもわからない、一番前の席の次男は、みんなの緊張で静まり返っている雰囲気の中で、大変な戸惑いを覚えたようである。
なんとか友達に助けられて、ランドセルをしまい、職員会議を終えて先生が戻って来られるまでには、自分の席につけたようである。
集団生活で、自分だけがはずれているということに気づいた時のショックは、何となく理解できる。
次男の場合、はじめての小学校生活の第一歩目でのショックだから、いかばかりのものだったかと思う。
その日帰ってきてすぐに、報告をしてくれた。しかしその後この事に話が及ぼうものなら、「思い出したくない」と頭を抱え込むしぐさをして気にする。そうとうこたえたようだ。
その後何にでも大胆な次男が、「みんなからはずれまい」と、色々と意識することが、ほほえましい。
一日目のショックは、次男が緊張して小学校生活をスタートするために、必要なことだったのだとも思う。
それにしても、大きなショックだったろうなと、小心者の私は思い出すたびに同情してしまう。
次男も緊張した小学校生活が送れるかのように思えたが、またまたやってしまった。
それから十日後、朝子どもたちを送り出して、しばらくたって玄関のチャイムが鳴った。
次男が半べそをかきながら、名前をつげる。どうしたのかと思うと、「ランドセルを忘れた」と言う。
見ると、玄関にランドセルがあるではないか。
途中で気が付いたのではなく、教室に入ってランドセルをしまおうとして、気づいたらしい。学校まで5分とかからない距離なのに、登校して帰ってくるまでに、20分以上かかっていたのだから。
本人が気づかないのも問題だか、一緒に登校していた兄も、また見送った私も気がつかなかったのだから、どうしようもない。登校していく後姿を見ながら、どうして私は気づかなかったのか?情けない。自分に自分があきれてしまう。
我が家のおとぼけ一家を象徴するような出来事だなと思う。

それから何日かは、次男は登校前に「ランドセル、よし」と点検をしていたが、今ではもう忘れてしまったようだ。

これからも次男には、こういうネタになる出来事がつきまとうのかな?
 

みんなちがって、みんないい
 小学校3年生の子どもの教科書に載っていた童謡詩人金子みすずの詩です。


わたしと小鳥とすずと
  
わたしが両手をひろげても、
  お空はちっともとべないが、
  とべる小鳥はわたしのように、
  地面(じべた)をはやくは走れない。

  わたしがからだをゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴るすずはわたしのように
  たくさんなうたは知らないよ。

  すずと、小鳥と、それからわたし、
  みんなちがって、みんないい。

(光村図書「国語三上わかば」より引用)
「みんなちがって、みんないい」、とても力を与えてくれる言葉ですね。
先日の長男の参観日に、教材としてこの詩がとりあげられていました。
その時から、この最後のフレーズが心に深く残っています。

ゴールデンウィーク中、豊川の主婦殺人、バス乗っ取り殺人と、17歳の少年による衝撃的な事件が二件発生しました。
男の子二人をもつ親として、いろいろなことを考えさせられます。
マスコミでも様々な意見が取り上げられています。
社会の何かが、子どもたちの心をすさませているのでしょうか。

でも、「みんなちがって、みんないい」と、一人一人の存在をありのままに受け止められるような社会だったら。
 
とくに、一人でも少年の存在をまるごと受け止めてやれる人がいたら、このような事件が起こらなかったのでは?と私は思うのです。

親は子どもに期待してしまいます。子どもも親の期待に応えようとします。
子どもが親の期待のレールの上を順調に走っている時は、何も問題がないのでしょう。
問題は、途中でそのレールから外れそうになった時です。
 
親は子どもがレールから外れても、無条件に受け止めてやれるのか。無条件に愛してやれるのか。
 
親の価値観の中での「いい子」は受け入れられるが、そうでない子は受け入れられない。
そういう条件付の愛情のもとで育てられている子どもには、条件から外れた時、逃げ場がありません。
親は挫折しても、他に選択肢があることを子どもに提示してやり、挫折を乗り越えていくことを希望をもって見守ってやれる存在でなければなりません。
子どもの将来に対して決して悲観的にならず、希望をもちつづけてやることが、子どもの立ち直りの力になると思います。

子どもがどんな状態であっても、「みんなちがって、みんないい」と、受け入れ、愛してやれる。
そういう親でありたいと思います。

できることなら、親の思いのレールの上を走らせない方がいいと思います。
そのことは、親が何に価値を置いているかの問題でしょう。
親のあり方が、子どもに大きく影響します。
このことを思うと、親としていい加減に生きていてはいけないなと、姿勢を正してしまいます。

「 あなたは、わたしの目には、高価で尊い。
   わたしはあなたを愛している。 イザヤ書43章4節


神様は一人一人を無条件に愛してくださっています。
親もその愛のように、子どもを無条件に愛するなら、子どもは、自分が愛され、価値ある人間であるという自尊心をもつことができるでしょう。
そういう愛されている子どもは、正しく成長していけると信じます。

大きな少年事件があるたびに、私の子育ては間違っていないだろうかと、不安になります。
「みんなちがって、みんないい」このことばを心に刻んで、子どもと接していきたいと思わされているこの頃です。 
 
「心」の時代では?

教会の女性たちの集まりで、様々な問題が露出してきている現在の社会を、憂える話をしていました。
今の日本の社会が、世界の中で一番病んでいるのでは、という意見もありました。
でも私はそうは、思いません。

「悪より守ってくれる正義の味方」と思っていた警察内部の腐敗ぶりが、次から次へと表に出てきています。
正義の味方・警察信仰は、崩壊しました。
また、土地神話、会社信仰、学歴信仰も、既に崩れてきて、今まで培われてきた信頼、価値観が、総崩れしているような時代です。
高度成長時代、バブルという上昇気流の世の中にあって、人々は目に見える「形」を拠り所として生きてきました。「もの」を追い求めてきました。
今、その「形」「もの」が幻想、幻覚であり、価値をおくものではなかったことに、気づいてきているのだと思います。私は、現在の様々な崩壊現象を本来のあるべき姿に戻っていると、受けとめればよいのではと思います。

「世」のものに、何も拠り所とできるものはありません。
「世と世の欲は滅び去ります」(第一ヨハネ2:17)と、聖書でも言っています。
「世」のものに価値がないと気づいてきた今こそ、本当に大切なものに目を向けることができます。

形あるモノではなく、形のないモノが、目に見えるモノではなく、目に見えないモノが大切なのです。
今こそ内面に、心に、目を向けていく時だと思います。

教育面では、それをすでに先取りして「心の教育」を重視しようとしています。
私には小学生の子どもがいますが、私が育ってきた頃とは違って、様々な点で「子どものこころ」を育もうとしている学校側の姿勢を感じます。2002年度から実施されるゆとりの教育にも期待したいと思います。
しかし親側の知育、学歴信仰が未だ顕在で、全く変化していないことが、大きな問題だと思うのですが・・・。

「形」にとらわれない、しばられない時、一人一人の心は、本当はやさしいと思います。
阪神大震災の直後、人々は互いに助け合いました。
私の親戚は3人とも、家屋の下敷きになりましたが、近所の人たちによって全員助け出されました。
極限状態では、みんな助け合うことのできる、他人を大切にできる心をもっていることを信じます。

これからの21世紀は、今までしばられていた「形」から解放されて、「心」へ向かう時代だと思います。

ここ数年自殺者が急増しているようです。
交通事故の死者が一万人を超えると毎年ニュースになりますが、自殺者はその三倍の三万人以上ということです。

中高年の男性が、妻子を残して自殺するケースが多いようです。
「形」に失望し、自ら「死」を選択するのでしょうか。
「形」ではなく、「心」に目を向けていたら、思いとどめられたのでは。
まず一番に、残される家族の「心」を思っていたなら、自殺以外の道を選ぶことができたのではないでしょうか。

戦後の合理主義の風潮の中で、合理性を求めるあまり、ただ成長率、成績といった乾いた数字を追い求めてきました。そして「心」の存在は無視され、カラカラにかわいてきました。
でも、右肩上がりの成長は終わりました。乾いた数字を追い求める時代は、終わりました。
乾いた心を潤わせ、本来の豊かな心を取り戻していく時だと思います。
これからは、軽視されていた「心」に目をむけ、大切にしていく時代だと思います。

最近、犯罪の被害者の心が、司法の場で踏みにじられていることに対しての主張が強まってきています。
こういう面でも、「心」の存在が重視されるようになってきたあらわれのように感じます。

21世紀に向けて、政治や経済の変革が求められています。
それらの根底で、「心」が重視され、「夢」のある社会に再構築されていったらいいなと思います。
子どもの親として、これからの社会に、「夢」や「希望」があることを信じたいです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

           (Uコリント 4:18)