閲覧して頂いている方にありがとうございます。
これから下記を一つ追加して変化を加えてみようと思いUPしました。
朝日新聞の天声人語ではないですが、TSR情報のコラムに載っている一文を紹介していこうと思っております。
内容もたいしたこと無いとお思いになられるかもしれませんが、吟味して掲載していこうと思っていますので宜しくお願いします。
過去のリスト
1.人間鑑別法 
2.情 報 
3.会 議 
4.リフレッシュ 
5.風 
6.ハングリー精神 
7.産 地 
8.言葉遣い
9.菊と刀
10.テレビ時間
11.新 札
12.平成三十年
13.風 土
14.千 両
15.ラーメン
16.風呂敷
17.右寄り左寄り
18.コンビ
19.馬 鹿
20.システム障害
21.トーク番組
22.エチケット
23.支持率
24.資 格
25.スリッパ
26.余 暇
27.地位の不安
28.肩書き
29.ゆとり教育
30.ニセ札
31.羊頭狗肉
32.社 訓
33.人 災
34.産地の偽装
35.医療費
36.もたれ合い
37.引き際
38.自己主張
39.テレビ人間
40.テレビ依存症
41.住宅建築
42.職人芸
43.スピーチ
44.謝 罪
45.身 銭
46.統制力
47.発泡入浴剤
48.アニメ
49.左利き
50.50歳
51.詰め合わせ
52.三味線
53.写 経
54.年賀メール
55.猛 女
56.名 前
57.常 識
58.コメンテーター
59.貯蓄率

60.会 社
61.教育パパ
62.すねる
63.耳学問
64.朗 唱
65.愛情表現
66.言い回し
67.噴 水
68.年の始め
69.愛情表現
70.食物規制
71.教育レベル
72.全米ナンバーワン
73.歯科医
74.日本の刑事裁判
75.放送禁止用語
76.ガードレールから
77.回転寿司
78.交通違反
78.交通違反 <2003年2月18日>
 駐車違反で罰金を取られたことのある人は多いもの。法律に触れて刑罰を受けたわけだから、やはり「前科者」になってしまったのだろうか?
 「前科者」とはムショ帰りとはかぎらない。刑事裁判で有罪となって刑が確定すると前科がつくのです。「裁判を受けたわけではないから大丈夫だよな」と思って法律書をめくると、「刑」とは刑法第九条に規定されていて「死刑」「懲役」「禁錮」「罰金」「拘留」「科料」だというではないか。
 「えっ、では罰金を払っただけでもやっぱり前科者?」と驚いてしまう。しかし交通違反の罰金は正式には「反則金」といい、刑法で定めている罰金とは違うのである。
 「反則金」とは行政上の制裁で警察の段階で科されるが、刑法の刑罰ではないのです。だからといって安心してはいけない。交通違反でも、場合によっては前科者となる。「飲酒運転」「無免許運転」「自足30キロ以上のスピード違反」などで赤切符を切られた場合、それに人身事故で人を死亡させたり、被害者の訴えがあったりした場合は、警察から検察に送検される。そして刑事裁判にかけられて有罪となると、これは「前科者」である。
 また駐車違反だからといって軽く考えてはいけない。青切符の駐車違反や信号無視でも反則金を納めず、何度でも督促状がきているのにそれを無視しつづけているとやはり送検される。こんなことで前科者になってはたまらないではないか。みなさん気をつけましょう。
77.回転寿司 <2003年2月17日>
 庶民にとって気軽につまめる回転寿司は、もはやなくてはならない存在となってきている。当初は「お寿司が回るだなんて」と尻込みしていた人々の間にもすっかり定着した。
 回転寿司の繁盛の秘密は、値段の安さや味の良さだけではない。寿司が乗ってくるくる回るあのベルトコンベアのスピードが絶妙な速さなのである。
 あのスピードは、だいたい秒速4センチ。これは人間が間近にやって来たものを目にしてそれが何であるかを落ち着いて眺め、判断を下せる速度なのだという。
 つまり自分でその皿を取るべきかどうかをきちんと考えて手を伸ばすことができるのです。もしこれが少しでも速かったら人はあわててしまい、おちおち寿司を食べるどころではない気分になる。あせって欲しくもない皿を手にしたり、好きなネタを取り損ねたりで不平不満のかたまりとなって早々に店を出るという。
 反対に遅ければ好みのネタがなかなか回ってこないことにイライラし、お茶をがぶ飲みすることになる。そして待っているうちにたいして食べてもいないのに満腹感がつのり店を出てしまうという。これでは売り上げが上がらない。
 つまり秒速4センチというのは、お客にあれも食べたいこれも食べたいと思わせる絶妙なスピードなのです。そしてお客は好きなネタを自分で選んで食べたという満足感からまた来ようという気になるのです。
76.ガードレールから <2003年2月16日>
 普段は何の気なしに眺めているが、道路の上にある物の値段を聞くと驚くほど高いのである。まず、ガードレールならば4メートルで約3万5千円。大体は両側の支柱も倒したり傾けたりしているので、それが1本約3万円。ちょっとかすっただけでも10万円はかかることになる。
 ガードレールで済めばまだマシなほうで、街路樹は約50万円で、電話ボックスは100万円近くもする。電柱は種類によって違ってくるが、電話回線やケーブルテレビのケーブル、変圧器などが乗っているものだと数百万円となる。信号や高速道路の道路標示版は、そんなに高くは見えないのに1千万円以上もするのである。
 「保険に入っているから何とかなるだろう」などと甘く考えていはいけない。保険でまかないきれないけーすもいくらでもある。例えば、電柱を倒してあたりを停電させてしまい、後日請求されたのは1億円近かったなどということがある。同じ物を壊したとしても復旧に必要な人員や日数、その場所の交通量などで弁償すべき金額は違ってくるのです。こんな事故の場合はドライバーだって重傷を負っているはず。まさに踏んだりけったりである。
 これを知ったら、道路を走るのが怖くなるほど。安全運転は誰よりもまず自分のためなのである。
75.放送禁止用語 <2003年2月15日>
 テレビやラジオでは、卑猥な言葉や差別語などを「放送用禁止用語」として使わないようにしている。放送になれているアナウンサーやキャスターならば、うっかりこういった言葉を使うことはまずないのだが、ゲストはしばしば失敗するようだ。それも録画してオンエアする番組だったら、収録しなおせばいいのだが、困るのは生放送の場合である。
 スポーツ中継などで、不慣れなゲストが放送禁止用語を口にしてしまうと、アナウンサーが「只今不適切な表現がありました」としかつめらしい顔でお詫びと訂正をする。肝心のゲストはなんのことやらわからず、横できょとんとしていたりする。
 放送禁止用語にもいろいろあるが、差別語などの場合はたいへんなことになる。ディレクターやプロデューサーが始末書を書かされるのは当たり前で、部長や局長といったお偉方まで責任を問わされることがあるそうだ。ところが、これほどの騒ぎを巻き起こす方送禁止用語なのだが、これは別に法律で禁止されているわけではない。放送局が自主的に規制しているだけなのである。
 また「放送禁止用語」という言葉そのものも通称であり、正式には「放送上注意すべき言葉」といって、こういう言葉をつかわないようにというリストがあるだけなのだ。卑猥な言葉に関しては、使い方によってかなり幅があるし、それが地方の方言だったりすると、そのまま全国放送されてもおとがめなし。「放送禁止用語」とはかなりあいまいなものなのです。
74.日本の刑事裁判 <2003年2月13日>
日本の刑事事件の裁判で無罪判決が出るのは毎年1%以下。つまり、起訴された人間の99%以上は有罪となっているわけで、これは世界でも飛びぬけた数字である。
 有罪率の高さは証拠固めをする検察官の能力の高さを示すもの。だから日本の検察官は優秀だということになる。だが、そう喜んでばかりもいられない。無罪という判決が出るのは、それを担当した検察官にとってひどく屈辱的なことなのだ。
 何しろ1%以下というめったに無いことである。上司には叱られ同僚や部下からは軽蔑の視線を浴びる。こんなことが続くと査定にも響くだろうし、出世も望めない。そのため「有罪になるか無罪になるか微妙だな」という事件の場合。それを起訴するのを見送ってしまう傾向があるのだ。このとき用いられるのが「不起訴」や「起訴猶予」なのである。
 刑法ではすべての刑事事件について起訴する必要はなく。検察官の判断によって起訴しないということも認められている。これが「不起訴」である。
 また、証拠があるので不起訴ではないが、検察官の情状酌量で「まぁ、今回は見逃してやろう」というのが「起訴猶予」である。
 だから裁判になったら有罪だったかもしれない者でも事実上何のおとがめも無しで、大手を振って歩いていることもある。もちろん必死になって証拠や証人を集め有罪にしようという検察官もいる。このように法律の世界でも改革の必要性が論議されているのだが、なかなか実現しないようである。
73.歯科医 <2003年2月12日>
 最近の歯科治療では、できるだけ歯を抜かずに高齢になっても入れ歯ではない自分の歯で者を食べられるようにしようというのが常識になっている。
 だから抜く必要もない歯をやたらと抜きたがる歯科医には用心しよう。そもそも腕のいい歯科医なら虫歯にやられた歯をあまり削ったり抜いたりせずに治療するものである。とくに根のほうまで進んだ歯を根幹治療できるかどうかが、技術のバロメーターだといわれている。ちょっとした虫歯でもぬいてしまうような歯科医は技術に自信がないのだ。
 しかもそれだけではない。今の医療保険制度では、何でもかんでも削って引き抜く歯科医の方が保険の点数を稼げるので儲かるようになっているのだ。しかも削ったり抜いたりした部分を埋める材料費も請求できるし、保険外の治療をすればまたどっと儲かる。業者からのマージンも期待できる。 それにひきかえ真面目に根幹治療に取り組む歯科医は気の毒なくらいである。手間隙が掛かる割りには、その技術が保険料に反映されていないのだ。
 今の制度ではよくない歯科医がいい目を見て、良心的な歯科医はせっせと働いても実りがないことになる。このことはずいぶん前から問題になっているのだが、医療保険制度の改革はなかなか進まない。せめて我々にできることは良心的な歯科医を選ぶことだろうか。
 あとは定期健診がお勧めである。せめて1年に1度は定期健診に行くことである。痛くないときこそ楽に終わるのである。
72.全米ナンバーワン <2003年1月13日>
 公開される映画が、「興行成績、全米ナンバーワン」と宣伝されていると、「どれ、そんなに面白いのなら見てみようかな」とそそられるものである。ところがすぐ続いて公開された別の映画も全米ナンバーワン、その次の映画も全米ナンバーワンだったりする。おいおい、いいかげんなことをいうんじゃないよと、あきれたことはないだろうか?
 しかしこれは別にウソはない。この全米ナンバーワンとは、これまでのすべての映画のなかでナンバーワンといっているのではないし、その年度のナンバーワンですらない。その週だけの、ナンバーワンなのだ。
 映画が封切のときは、宣伝されたりマスコミに取り上げられたりでなにかと話題になる。だから映画館に足を運ぶ人も多いので、その週はナンバーワンになりやすい。次の週にはすぐ順位が落ちたとしてもナンバーワンであったことには間違いない。そのため、たくさんのナンバーワンが生まれることになる。今週の次、そのまた次と考えると、一年に52本の「全米ナンバーワン!」があってもおかしくはないのだ。話題作とぶつからないように、わざわざ公開の日をずらして、ナンバーワンの称号を得る映画もあるという。つまり「全米ナンバーワン」だからといって、その名に相応しいとは限らない。とくに最近は、宣伝ばかりが先行し長く親しまれる映画が少なくなったことは事実である。
 本当に面白い映画を見たいなら口コミなどの評判を反映した二週目意向のランキングによるほうがいいのかもしれない。
71.教育レベル <2003年1月6日>
 「(欧米と日本の)大学院の教育レベルは三役と十両の違いがある」。ノーベル化学賞を受賞した野依良治名古屋大学教授がインタビューで語った言である。昔、日本の小学生の数学のレベルは「世界一」といわれた時代があったが、大学院の教育レベルは「幕内」から「十両」に転落したということらしい。
 能楽師・能世阿弥の『風姿花伝(ふうしかでん)』は最初の能楽論だが、第一級の教育論として有名。現代風に解釈するとこうだ。小学生の頃までは楽しくやらせなさい。中高生の頃になるとそろそろ引きしめてもいいが、無闇に細かいことを教えてはいけない。「実に難しい時期」というのが大学の4年間に当たる時期。志を決めたら脇目も降らずに馬車馬のように突進させろ。一生の境目はこの時期にあり、ここで止めれば能も学問も終わり、と説く。
 現代の教育はこれと逆。早い時期からガリガリ教えるためヤル気がなくなる。中高生になると受験勉強で細かいことを教えすぎるので、精根をすり減らす。受験勉強の開放感から「難しい時期」の大学4年間に志を決められない。かくて、かつての秀才も「一時の花」で終わる。
昔の人はうまいことを言った。「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」。


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70.食物規制 <2003年1月5日>
 サラリーマンやOLのほとんどは昼食を外でとる。世界では珍しいらしい。ラテン諸国ではシエスタといって昼の時間は店を閉めてゆっくり家庭で昼食をとる習慣がある。インドなどでは弁当持参が普通で、昼食を外食で済ますということはあまりない。なぜ、昼食を外でとるようになったかといえば、思い当たる点が一つある。
 食物規制(食べてはいけないもののリスト)がないことだ。日本には仏教、キリスト教から新興宗教まで色々あるが、食物規制を守っている宗教をまず耳にしない。イスラム教には厳格な食物規制がある。イスラム原理主義のテロリストが、酒を喰らっていたという記事が載っていたが、ほんとかいなと首を傾けた。イスラム教では酒は無条件に禁止されているからだ。酒を飲むと理性を失い神のことを忘れるといけないからだそうだ。
 このように、世界には食物規制がある宗教が多い。食物規制を守ると、何が入っているか分からないので迂闊に外食できない。豚が食べていけないリストに入っている社会では、豚カツや豚汁は絶対にダメ。日本の宗教には食物規制があまりなかったので、何を食べても問題なし。食物に対するタブーがないという安心感があるから、昼食を外でとることができるわけだ。


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69.愛情表現 <2003年1月4日>
 世の中は目まぐるしく変わっているが、変わらないものもある。愛情表現はその一つだろう。
米国映画では夫が妻に「愛しているよ」という場面が多い。電話ででも、自宅に戻った時も「愛しているよ」と言わねばならないようなのだ。しかし子の習慣を我々は身につけなかった。日本の男は照れ屋だからというわけではない。
 明治の頃、誰かが英語のLOVEを「愛」と訳した。これは数々の誤訳の中で極め付きだ。ギリシャ語にはLOVEに相当する言葉が三つある。知的好奇心を現すフィロス、性愛のエロス、神が人類に与える無償の愛のアカベー。理解できるのはエロスで他の二つは分かりにくいが、何にしてもLOVEはプラスの価値を持っている。しかし日本では江戸時代まで「愛」という言葉はマイナス価値だった。(橋爪大三郎『宗教社会学入門』)
 江戸の人々は「愛」を物事に執着し、こだわりを続ける「煩悩」として捉えていた。煩悩だから「愛」を育むのではなく、断ち切らねばならなかったわけだ。LOVEを「惚れる」と訳していれば、間違う者は誰もいなかったが、全く正反対を意味する「愛」と誤訳したからおかしなことになった。
日本の男は「惚れているよ」と言っても、「愛しているよ」とはなかなか言わない理由だ。


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68.年の始め <2003年1月1日>
 新(あらた)しき 年の始めの初春の 今日降る雪のいや重(し)げ吉事(よごと)
 年の始めに相応しいのは、この歌。『万葉集』の最後を飾る大伴家持の名歌だ。天平宝字三年正月一日、因幡国庁で催された正月の祝宴で、国司の大伴家持が詠んだ。
めでたい元旦の朝に、めでたい豊作のしるしの雪が降る。
二重のめでたさを祝った歌である。
「時の流れ」とともに人間が生まれては死んでいくというのが日本人の人生観だが、捉えようのない時の流れに区切りをつけたのが人間の智恵だろう。ある時点を捉えて特別の意味を与えた。それが「行事」だ。かつて家庭には色々な行事があった。お正月、雛祭り、端午の節句、お盆・・・行事が一年中散りばめられていた。そういう行事の日がハレの日で、その日にはハレ着に着替え、心も改まって、普段の日とは違った経験を楽しんだ。
 行事が多いのは、人生に折り目を与えるため変化を演出する努力を重ね、作り出してきたからだ。そして最大の区切りとして考えた行事が「正月」だった。家持は今年の吉事を祈る歌を詠み、人々は一年の計を立て折り目を付けた。だが現代人は残念ながら変化の演出が貧因化したため、折り目をつけることができなくなった。


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67.噴 水  <2002年12月31日>
 マンションのチラシに噴水のある中庭を配した演出が目につく。企業のリストラで放出される不動産は規模が大きいことから、中庭に時計台や噴水を設けたり、大きな木や四季折々の草花を置いたりして、ゆとりがある空間を売り物にしているのだろう。ケチをつけるつもりはないが、かねてから疑問に思っていたのがその噴水だ。
 古代ローマ人は、征服した町で必ず水道を引いた。町の真ん中に水道を引き、その中心に噴水を作った。人々を驚かせるためだ。噴水はローマ軍勝利のシンボルだった。乾燥した水のない町で、ふんだんに水を噴き上げさせるところに、パワーを見せつけたのだ。噴水は中近東のオアシスを原型とするもので、水がないところで水を噴き上げるから意味をもったのである。
 日本では1903(明治36)年に開園した日比谷公園の鶴の噴水が噴水の元祖。西洋かぶれの明治人がマネして取り入れたのだろうが、実に馬鹿げたことだ。水がふんだんにあるところでは歴史的意味は全然ないからだ。日本人が古来から好んだのは、溢れるように流れ落ちる滝だった。ゆとりあるマンション作りを目指すなら、吹き上げる噴水をやめて、流れ落ちる滝を演出するほうが好ましいのではないか。


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66.言い回し <2002年12月30日>
 官庁には民間とは違った独特な官庁用語がある。ありふれたことを回りくどく、勿体ぶって表現する。「転職しやすくする」と言えば済むことを「人的資本の流動性の拡大のための環境整備を行う」という。だが、民間も官庁用語を嗤うことはできない。
 サラリーマン社会にも独特な言い回しがあるからだ。たとえば、社外の人から社内の人物について訊かれた時の言葉遣い。本音ではそう思っていても「あの人は辞めて欲しい人の筆頭です」とは言わない。無難なのが「あの人はよくやっていますよ」だろう。これは「可もなし不可もなし」ということを言い換えたものである。ちょっと厳しくなると「あの人はマイペースだからね」となる。「マイペース」とレッテルを貼られるのは、サラリーマン社会ではプラスの評価ではない。
 「マイペース」を翻訳すれば、上役が言ったことを全然きかないし、何をしているのかも分からない奴だという意味が込められている。では、それより下の言い回しには何があるか。フーテンの寅さんに倣えば「それを言っちゃオシメェよ」というのが一つある。毒にも薬にもならないから、いてもいなくてもいいという意味の言い回し。「あの人はいい人ですね」である。


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65.愛情表現 <2002年12月29日>
 世の中は目まぐるしく変わっているが、変わらないものもある。愛情表現はその一つだろう。
米国映画では夫が妻に「愛しているよ」という場面が多い。電話ででも、自宅に戻った時も「愛しているよ」と言わねばならないようなのだ。しあkし子の習慣を我々は身につけなかった。日本の男は照れ屋だからというわけではない。
 明治の頃、誰かが英語のLOVEを「愛」と訳した。これは数々の誤訳の中で極め付きだ。ギリシャ語にはLOVEに相当する言葉が三つある。知的好奇心を現すフィロス、性愛のエロス、神が人類に与える無償の愛のアカベー。理解できるのはエロスで他の二つは分かりにくいが、何にしてもLOVEはプラスの価値を持っている。しかし日本では江戸時代まで「愛」という言葉はマイナス価値だった。(橋爪大三郎『宗教社会学入門』)
 江戸の人々は「愛」を物事に執着し、こだわりを続ける「煩悩」として捉えていた。煩悩だから「愛」を育むのではなく、断ち切らねばならなかったわけだ。LOVEを「惚れる」と訳していれば、間違う者は誰もいなかったが、全く正反対を意味する「愛」と誤訳したからおかしなことになった。
日本の男は「惚れているよ」と言っても、「愛しているよ」とはなかなか言わない理由だ。


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64.朗 唱 <2002年12月27日>
 双手を挙げて賛成である。中村桂子著『声を出して読みたい日本語』(草思社刊)の主張だ。小学校の授業から暗唱、朗唱が消え、朗々と声を出す文化が滅びつつあることに危機感を抱いた著者が、暗唱、朗唱のテキストとして編んだものだ。
 日本では、文字よりも声を大事にする文化を持っていた。神前結婚では神主が祝詞をあげる。法然、親鸞、日蓮といった鎌倉仏教の創始者達は仏教にも暗唱・朗唱を取り入れた。「南無阿弥陀仏」の念仏や「南妙法蓮華経」のお題目を唱えれば必ず成仏するというのうがエッセンス。日本人は、ろくにお経を読まなかったが、それが念仏を唱えることでお経の要点を会得できるのだ。庶民の間に広く受け入れられた理由である。
 このように日本では黙読はダメ。意味など分からなくても、とにかく声を張り上げて朗唱することが容量のいい知識吸収だった。だがテレビ時代になって暗唱・朗唱の習慣が急速に廃れていった。映像のイメージとして受け取る方法が、楽にできる知識吸収法になったからだ。かくして文字は黙読するものとなった。だが、時には味のある文章をカラオケで歌うように朗々と声を出して読んでみたらどうだろうか。


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63.耳学問 <2002年12月26日>
 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺がある。分からないことを尋ね自分の無知を知られるのは恥だが、一度恥をかけば以降はそのことについて無知でなくなるので、一生恥をかけば以降はそのことについて無知でなくなるので、一生を恥をかくことはないという意味。まことに合理的な考え方で「耳学問」の勧めとなっている。
 中高年サラリーマンが「耳学問」で身に付けたものに医学知識がある。集団検診の結果が出た日には、数値の解釈を巡って盛り上がる。肝機能の診断はGOT、GPT、γGTPの三検査が基本だが、異常値が出たらにわか医師が続出する。「数値が高くても心配するな。暫く禁酒すれば元に戻る」と慰めの言葉を吐く人もいれば、「ほかは正常なのにγGTPだけ高いのは、肝臓がアルコール処理に追われ疲れているのだから、ヤバイぞ」と脅す輩もいる。
 彼らは医学を学んだわけではない。医師のご託宣を鵜呑みにした「耳学問」である。付け焼刃であっても集団検診の数値を読むことはできる。これが「耳学問」の効能。「聞くは一時の恥」とばかりに「GOT、GPT、γGTPの三つとも高いんだけど」と訊けば、にわか医師はビールをうまそうに飲みながら答えた。「何らかのアルコール性肝障害あり。酒はのまないことだな」と。
皆さん、お酒はほどほどにしておきましょうね。


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62.すねる <2002年12月25日>
 土居健郎氏の名著『「甘え」の構造』によると。日本語には甘えの心理を示すものとして、ただ「甘える」という一語だけが単独に存在しているのではなく、「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「恨む」などはいずれも甘えられない心理に関係していると言う。これはよく分かる。いい年をして「すねる」輩がやたら多いからだ。
 「すねる」とは、自分を正当に評価してくれない周囲に対し、自分の意向を受け入れてくれるべきことを気付かせるために、わざと反抗的態度をとることをいう。子供が母親に「すねる」、女の子が恋人に「すねる」のがそれだ。そこには「それに気付いて自分の意向を認めてくれてもいいではないか」という独りよがりと「甘え」がある。素直に「甘え」られないからわざと「すねる」のかも知れないが、「すね」ながら「甘え」る高等戦術でもあろう。
 「すねる」に対する最上の扱い方は無視である。機嫌をとって相手にすればするほど、ますます「すねる」ようになるからだ。だが無視されると、自分の甘えの当てが外れるため、不等に扱われていると「ひがむ」。「甘え」が拒絶されると一転、敵意をむき出しにして「恨む」ことになる。これが「甘え」のプロセスである。


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61.教育パパ <2002年12月24日>
 ひと頃「教育ママ」という言葉が流行ったが今は「教育パパ」である。自らの手で子供に超早期英才教育をやるパパだ。歌舞伎や能の古典芸能の世界ばかりでなく、スポーツの世界でも「教育パパ」が見受けられる。それを見習って、一芸に秀でた子供に育てるためには、やはり早期英才教育を施す必要があるということだろう。
 父親が子供にマンツーマンで教育する方法は、古典芸能などは別にして一般には好ましい結果を生まないとことが多い。親離れの思春期に反動が出てくるからだ。しかし全てがマイナスかといえば、そうではない。ただし条件がある。その好例を幕末の英傑、勝海舟の父親の勝小吉に見ることができる。小吉は風俗外の顔役として無頼の限りをつくし暮らしは貧窮を極めたが、息子のために学資を工面して学問させた。部類の「教育パパ」だった。
 小吉は『無酔独言』に放逸な半生を書き残しているが、その教育のやり方は「反面教師」である。わざと無軌道な無頼になる。俺は「飲む、打つ、買う」の三拍子揃ったワルだから、俺のマネはするなよと「反面教師」に徹する。ただの親子関係にはならなかったのは、自分の悪さを子供にさらけ出したからだ。「教育パパ」の条件は。「反面教師」にありという逆説がそこにある。


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60.会 社 <2002年12月23日>
 いろんな会社がある。働く人の多くが所属している株式会社、有限会社から「聖域なき構造改革」の目玉になっている特殊法人に至るまで、現代日本はこのような会社に類するものの集合体といっていい。毎日、次々と会社が生まれている。まさに会社の時代だ。当初「会社」なる言葉は、さまざまな意味で使われていた。
 明治時代には何かあるとすぐ会社を作ったようで、驚くものがある。文部省ができる前、小学校は民間の「小学校会社」が運営、日本最初の図書館は「民集会社」といった。石井研堂の『明治事物起源』は、「勧農会社」には「ヤクショ」とフリガナがついていたこと、新聞には「ヤクショ」という言葉にすべて「なかま」とルビがふってあったことを紹介している。役所、仲間、組合、協会、団体など、何でもかんでも「会社」と呼んだのである。
 これらの会社は、必ずしもそのまま発展の道を辿ることもなく、挫折したようだ。以後は、専ら資本的結合を意味する「五人或いは十人仲間を結て事業を共にする商人会社」(同書)に限定され使われるようになる。だが、もともとは民間の同志的結合を意味したのが「会社」。
この意味でなら、我々も簡単に「会社」を作ることができる。例えば禁煙を誓った仲間の会は「禁煙会社」である。


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59.貯蓄率 2002年12月22日>
 同時多発テロ後、米国の個人の貯蓄率が4.7%に上昇した。生活への不安感から消費を抑え貯蓄を増やしたわけだ。しかし、一桁違うのではと思った人が多かったのではないか。総務省がまとめた2000年の日本の家計における貯蓄率は27.9%。失業への不安が強まり、現在はひょっとしたら30%代に乗っているかもしれない。
 消費を控えせっせと貯蓄しているのだから、これでは政府がどんな手を打っても景気が上向かないのは当たり前だろう。人々がなぜ消費しなくなったかというと、老後への不安、失業への不安から生活を守るために貯蓄に励むと解説されているが疑わしい。今よりずっと貧乏な時代には、借金してでもテレビやクルマを競って買っていたからだ。今は、何が何でも手に入れたいものがないから、消費が増えないというのが本当のところである。
 消費はいつでもできると思っているが、これは大間違い。食指が動かなければ、まずお金を使わない。だから貯蓄がどんどん増えていく。貯蓄率が27.9%というのは、驚異的な数字なのである。
生活を楽しむのを脇においても貯蓄するのは、老後の不安からばかりとはいえない。考えられることはひとつ。遺産を残すことが人生最大の消費目的となっているからである。


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58.コメンテーター <2002年12月20日>
 テレビ番組の常連にコメンテーターがいる。アフガン問題には、それに通じたコメンテーターが登場し、経済問題では、それを解説するコメンテーターの出番。いうところの「テレビ文化人」である。しかし、彼や彼女らはズブの素人ではないけど、かといって専門家でもない。まことに不思議な存在だが、こう解釈することができる。
 近世に「世間師」と呼ばれた一群がいた。ムラ、ムラを回る商人や職人、旅芸人などである。ムラ人が彼らの訪れるのを心待ちしたのは、彼らが持ち込むソフトの情報を知りたかったからである。あの町で大火事があった、あの藩では跡目相続の争いが起きている、あるいは大店の娘がかなわぬ恋で心中したといった情報だ。自分達の住む土地とは違う、ソトの世界の消息を「世間話」と呼んだ。
 その意味では、テレビのコメンテーターは現代の「世間師」である。テロやアフガン問題から政治、経済、スポーツ、芸能に至るまで、ソトの世界の消息に通じているからだ。世間ずれして世渡りがうまく、口が達者なのはコメンテーターも「世間師」も同じ。従って、コメンテーターがにぎにぎしく雁首を並べるテレビ番組は、消息通の「世間師」による「世間話」にほかならない。


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57.常 識 <2002年12月19日>
 「日本の常識、世界の非常識」という。こちらでは常識でも、民族や宗教が違えば非常識のことが少なくない。食も身振りも挨拶も服装も、それぞれのお国柄の常識を知らないでいるために反発や誤解を招きやすい。その常識・非常識を解説したのが『常識の世界地図』(文春新書、21世紀研究会編)。次のようなくだりがあった。
 「人前で靴を脱ぐな」。海外旅行に出かける女性の心得だ。ある日本人女性がイタリアを旅行した時、列車で移動した。歩き疲れたので靴を脱ぎ、前の座席に足をかけて座った。すると近くの男性が話しかけてきて、「いくらなんだい」と聞かれたという。日本では疲れたら靴を脱ぐのは「常識」だが、向こうでは「非常識」。自分から誘っていると思われても仕方のない行動なのだそうだ。
 あと一例。日本育ちの若い在日韓国人が母国で飲み会を計画した。彼は日本式の「割り勘」のつもりだったが、いざ会計となったら、全員が礼を言うだけで、誰も払おうとはしない。韓国では、「飲み会をやろう」と言いだした人が、全額払うのが「常識」だったのだ。飲みに誘われたら「割り勘」にしなくてよいのである。


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56.名 前 <2002年12月18日>
 「愛子」。皇太子ご夫妻の肉親王のお名前だ。『孟子』に由来するそうだ。これで俄然勢いづいたのは「○○子」がつく女性だろう。かつては名に「子」がついた女性が圧倒的に多かったが、最近は凋落の一方。「○○子」の復活を期待する向きは少なくなかろう。
 明治時代の女性の名は、「しづ」「きく」のように江戸時代風の2音節仮名2文字が主流だった。皇族や公家がつけていた「子」にあやかった「○○子」が登場するのは明治30年代以降。これが非常な勢いで普及した。同時に、皇族や公家の女性の漢字を用いた名も大流行した。
 例えば明治の大歌人、与謝野晶子。旧姓は鳳で名は「しょう」。それが私名を「晶」と書き、筆名を「晶子」と称した。仮名2文字の名を漢字の「○○子」とする女性が多数派になったのである。
 昭和時代になると、昭和にちなんだ「昭子」「和子」のように「○○子」の全盛時代を迎える。しかし、あまりに”大衆化”したため飽きられ使われなくなった。代わって最近は、美、佳、紀、沙、麻、理などを用いた2音節の名が流行している。2音節漢字の明治時代への回帰だ。で、今後はこう予測できる。「みか」「まり」のように2音節仮名2文字の江戸時代風が復活する、と。かな・・


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55.猛 女 <2002年12月17日>
 日本に「猛女」と言われる女性がいる。サッチーこと、野村沙知代という人である。「猛母猛妻」なるエッセイをものにするほどだから、その毒舌ぶりはキョーレツ。片っ端からかみつき、”論敵”を血祭りにあげるワイドショーの悪役スターだったが、今度は数億円にのぼる脱税容疑で逮捕され、本当の悪役になってしまった。
 歴史上名高い「悪妻」と言えば、日本では浮気相手の家を叩き壊した源頼朝の妻、北条政子が有名だが、世界チャンピオンは古代ギリシャの哲学者、ソクラテスの妻クサンチッペだろう。「ソクラテスの妻」は悪妻の代名詞になっているほど。だが実際は気が強いだけの、平凡な女性だったらしい。毎日、弟子達と訳の分からない哲学問答しかしないソクラテスの方が、生活者としては「悪夫」であり、その妻が苛立つのも無理はない。
 その意味では「悪妻」という言葉は、男どもの身勝手な論理にほかならない。しかし、世間から「良妻」とは見なされなかった妻が、夫を悩ませ苦しませることで人間的に成長させ、結果的にひとかどの人物にさせたこともまた一面の真実といえる。ソクラテスは「悪妻をもてば哲学者になれる」と言ったそうだ。それに倣えば「猛女をもてばプロ野球の監督になれる」ということか・・・。


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54.年賀メール <2002年12月16日>
 年賀状を書くシーズンになったが、来年の年賀状を出さない人が大幅に増え、10人に1人を超えたそうだ。(パイロット調査)。ただし、年始の挨拶をしないわけではない。そのうちの4人の1人は「電子メールで出す」と答えている。年賀状から年賀メールに切り替える人が増えたのは、新しいもの好きというわけでもなさそうだ。
 というのは、年始の形式はどんどん簡略化されてきたからだ。元来の年始の形式は、他の家を正式に訪問して饗宴をうけるものだった。昭和20年代までは、会社員は職場の上司の家を訪問した。だが、それでは多数の家を回れない。そこで玄関で祝賀の挨拶を述べるだけで次々回った。それでも時間がかかるので、全員が集まれば省略化できると考え一堂に会するようになった。新年恒例の「名刺交換会」に名残を留めている。
 さらに、簡略化したのが年賀状だ。訪問は一切せずに、年賀状一枚で年始の挨拶を済ませようというわけだ。年賀状が普及したのは挨拶を簡略化したからだ。しかし、年賀状の宛名書きには時間がかかり面倒くさい。さらなる簡略化として登場してきたのが電子メール。クリックするだけで年始の挨拶をたちどころに送れる。年賀メールが増えたのは、横着ができるからかも知れない。


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53.写 経 <2002年12月15日>
 『般若心経』を写経するビジネスマンは少なくない。S君は一念発起し写経を始めた。日曜日の朝、机の前に正座。毛筆を使い「観自在菩薩」から始まる276文字を写経するそうだ。「手本をもとに一字一字書き写すのはかなりの集中力がいるが、ストレス解消になる」という。
 「般若心経』は、深遠な観察の修行を積み、存在するものは「空」であると悟った観音様が、この「空」を説法するもの。「空」の真理を知り、誤った認識を捨て、心身の安らぎを得なさいというわけだ。我ら凡人は「空」が何なのかはよく分からないが、それなのに、なぜ写経かといえば、精神を集中して書き写すため、心身が落ち着くからだろう。ここに写経のポイントがある。『般若心経』の精神をつかむには、一字一句、時間をかけてうつしていくのが必要であるということだ。
 これは学習の本質を衝いている。学習には、筆写が効果的だということである。しかし現代人は筆写をしなくなった。コピーをすれば一発で済むからだ。コピーは確かに便利だが、半面、落とし穴もある。文書のコピーをとりさえすれば、その文書を読んだ気になってしまうことだ。『般若心経』もしかり。写経をするから仏教の精神が伝わるものであって、コピーして済まそうという横着はいけません。


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52.三味線 <2002年12月14日>
 津軽三味線が若者に人気だ。茶髪に紋付き袴という異色のいでたちの若手スターも生まれている。洋楽に馴染んだ耳には逆に新鮮に響くのだろう。テレビでは、津軽三味線ライブを初めて聴いたという若者が、「激しいリズムに感動した」と興奮しているのが印象的だった。
九鬼周造という若くして亡くなった哲学者がいる。江戸人の美的生活理念「粋」を考察した『「いき」の構造』で有名。男爵家のお坊ちゃまの彼は7年間欧州に留学。ドイツではハイデカー、フランスではベルグソンと超一流の学者に学び、超エリート校学生のサルトルを家庭教師にした。このようにヨーロッパ仕込みの彼が帰国後、レコードを聴いていて「全人格を根底から震撼するとでもいふような迫力」の音楽に出会った。
 「自分に属して勝ちあるやうに思はれてゐたあれだのこれだのをことごとく失ってもいささかも惜しくないといふ気持」にさせた音楽とは、三味線の「端唄」と「小唄」だったのだ。(タケダ篤司著『物語「京都学派」』より)。津軽三味線を聴いた若者の感動は、たぶん九鬼が三味線の「小唄」で受けた感動と同じものだろう。なぜなら、現代音楽の主流になった電子音楽は刺激があっても魂を揺さぶる感動がないからだ。


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51.詰め合わせ <2002年12月13日>
 外国人から日本を知るのに最もふさわしいものを一つだけ教えてくれといわれたら、皆さんどうするか。今さら「フジヤマ」「カブキ」「スモウ」ではあるまい。食い物なら「スシ」「テンプラ」「スキヤキ」、遊び場なら「パチンコ」「カラオケ」が定番かもしれないが、あまり芸のある話ではない。ズバリ百貨店の「お歳暮」コーナー。これである。
 なぜなら、日本文化がぎっしり詰まったものにお目にかかることができるからだ。お馴染みの「詰め合わせ」セットである。「味噌」「醤油」「酢」「天ぷら油」「塩」「海苔」「花かつお」「だしの素」などの食品がワンセットになっている。全商品がすぐ必要というのではないが、たいていの仮定で品切れになっている食品が二、三点はある。品目を増やすことで豊富感を盛るとともに、消費者の需要の最大公約数を生み出しているのが「詰め合わせ」だ。
 とにかく何でも「詰め込む」のが日本文化の特質。「焼き魚」「肉」「フライ」「煮物」「漬け物」が少しずつ詰め込まれている「折り詰め」「幕の内」の弁当は「詰め合わせ」の最たるものだ。このように「詰め合わせ」を好む日本を知るには百貨店の「お歳暮」コーナーほどふさわしいものはない。「詰まっていない」単品を贈る際には「つまらないものですが」というお国柄だからである。


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50.50歳 <2002年12月12日>
 キレルのは若者の専売特許ではない。JR東日本の調べによると、駅や列車内で駅員に暴力をふるう乗客は50代男性が最も多いという。酔っ払った50歳代の男性に投げ飛ばされて大怪我した駅員も出ているから、深刻な問題だ。若者をマネしてキレルわけではなかろうが、50歳代という年齢がキレやすいのかもしれない。
 「三十にして立つ」「四十にして惑わず」というのは有名な孔子の言葉。では50歳はといえば「五十にして天命をしる」。『論語』に出てくるこのくだりは自分の人生・感慨を述べたもので、普通の人間に当てはまるものではない。30歳で仕事に自身がついたが、40歳で転職に思い悩んだことはないかを自問自答してみれば分かる。実情は「うかうか三十、きょろきょろ四十」ではないか。
 50歳になると定年が視野に入り、サラリーマン人生の「寿命」を知るようになるかも知れないが、「天の定め」という境地になっているわけではまったくない。住宅ローンを抱えたまま働けなくなったらどうしよう、と思い悩む「うつうつ五十」なのだ。そのため日々酒に走る。酒を飲んで酔っ払い、自分を失って乱暴狼籍に及ぶ。えてして50歳代の飲み方は「酒極まって乱となる」。


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49.左利き <2002年12月11日>
 どういうわけか、知り合いに左利きが少なからずいる。飲んだ席で「左利き、右利き」論議になった。左利きの彼は小学生の時に「えらく苦労した」という。当時は右手にはめる野球グローブはなかったし、算盤や書道の筆は右手でないと使えないようになっているから、その授業時間は「嫌でたまらなかった」とこぼす。
 人類は長い間、右手文化をオーソドックスな文化としてきた。はさみ、包丁からカメラのシャッター、パソコンのキーボードの配列まで、右利きに使いやすく作られている。以前は、左利きの幼児を右利きに無理やりに転向させる親がいた。右利き文化が支配する中で、右にプラス価値、左にマイナス価値があったからだ。「右腕」や「右に出る者はいない」と尊ばれるのに、左は「左前」や「左遷」と貶められたのは、その名残りである。
 その代わり左は希少性から左甚五郎が右甚五郎だったら、日光東照宮の眠りネコが目を覚ますという伝説はうまれなかっただろう。右甚五郎では不可思議な力を引き出すとは思えないからだ。
現在、右利きの半分以上が「左利きは格好よい」と見なしているのも同じ理由。で、左の神秘性を追体験する右利きもいる。「左党」である。


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48.アニメ <2002年12月10日>
 アニメ業界にはエポック的な出来事だろう。宮崎駿監督のアニメ『千と千尋の神隠し』がベルリン映画祭で最高の「金熊賞」を受賞した。これまでアニメは実写映画に比べ格下と見られていた。アニメ通によれば、そう思っているのは日本人だけらしいが、アニメが実写映画と肩を並べるまでになったのは目出度いことに違いない。
 アニメの源流を辿れば中世の「絵巻物」に行き当たる。『源氏物語絵巻』など教科書でおなじみのあれだ。絵巻物といえば我々は一個の美術品として教えられ鑑賞しているが、元をただせば芸能だった。民衆はろくすっぽ本を読まなかった。そこで長大な物語を絵巻物にして、絵解(えとき)が説明した。絵解とはトーキ映画時代の活弁に当たり、その語り口の面白さに引きずり込まれ絵巻物を楽しんだ。
 このように芸能の小道具として格下の扱いを受けていた絵巻物は、今や日本が世界に誇る美術品になった。アニメも同じことがいえる。アニメは子供向けとして格下の扱いだった。それが芸術品のお墨付きを受けたのだ。外国からお褒めを頂くと、見方を変えるのがわが国民性。大の大人も芸術品に格上げになったアニメを存分に楽しめる。


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47.発泡入浴剤 <2002年12月09日>
 発泡入浴剤の泡はいらない?「泡が血行を促進!」なんてフレーズのCMで人気の発泡入浴剤ですが、本当に泡で血行はよくなるのでしょうか?確かに体に触れる泡は気持ちよいのですが、実は血行促進に効果があるのは、体に触れる泡ではなく湯に溶け込んだ炭酸ガスの方なのです。炭酸ガスの溶けた湯に入ると、皮膚を通って血液に吸収された炭酸ガスが血行を促進し、その結果、筋肉に溜まった疲労物質を運び去ってくれるのです。
ところでこの作用、実は食塩にもあります。塩をひとつかみ、お風呂に入れればOK!
よ〜く温まって湯冷めしないように気をつけてくださいね。


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46.統制力 <2002年12月08日>
 各門企業の破綻が相次ぐ。青木建設、新潟鐵工所、殖産住宅相互、そして今度は佐藤工業だ。金融庁の特別検査で債務者区分が「要注意先」から「破綻懸念先」格下げされたのが引き金になったようだが、原因は別にある。当時のオーナー経営者に「原因を一つだけ挙げてくれ」と尋ねたら、たぶん同じ答えが返ってくるだろう。
 昭和恐慌の時、鈴木商店が破綻した。一次は三井、三菱を上回る大商社だった。「世界の鈴木」といわれるまで育てたのが金子直吉という大番頭。その人の晩年の回顧録を読んで納得した。破綻の第一原因に「統制力を失った」ことを挙げていたからだ。学校出の秀才達は世界財界の大立者と互角に渡り合い、すっかり自身をつけた。退却しようと思っても、「焼きが回った」とか言って、金子の言うことを聞いてくれなかったというのだ。
 統制力を失っていたが商売は隆盛を辿った。だが引き締めに入ると、統制力が欠如していたため一気に破綻した。企業をコントロールできなくなったことが倒産の原因というわけだ。バブル期に不動産投機をコントロールできなかった経営者も、同じ理由をあげるのではないか。
金子氏は言う。「50人、100人のうちなら統制出きるが、500人、1000人となるともう統制が不可能になる。」


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45.身 銭 <2002年12月04日>
 馬券は買わなければ当たらない。当たる確率を考えて、低そうだからやめとこうと、買う脳をやめれば、決して当たることはない。当たり前の話である。競馬マニアによれば、当たり馬券が的中するようになるには、「その何倍ものはずれ馬券を買わねばならない。身銭を切って、何回も失敗して初めて覚えられる」というのである。
 これは骨董品の目利きになるには、「身銭を切らねばならない」と言われてきたことと重なる。骨董品というのは贋作の宝庫である。本物は千に一つあればいいほどで、後は本物にそっくり作られてきた偽物だ。偽物をつかませれかもしれないと買うのをやめたら、決して目利きにはなれない。何度も偽物をつかませれたことがあるから、そのうちに本物と偽物の見分けがつくようになる。身銭を切っているため、判断力がシビアになるわけだ。
 ビジネス社会でも「身銭を切れ」は有効だ。身銭を切り買った本でなければ見につかないとまでは言わないが、本はできるのなら身銭を切った方がよい。パソコンも同じだろう。どこの会社でも社有パソコンを使っているが、上達しようと思うなら自宅用のパソコンを身銭を切って買う必要がある。使い勝手がいいといったことは、身銭を切って手元に置いておくと分かるようになるからだ。


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44.謝 罪 <2002年12月03日>
世界には「謝る文化」と「謝らない文化」がある。日本は前者だ。日本人同士では、あれこれ弁明せずに誠心誠意誤ることが、問題をこじらせない知恵。しかし、世界では「謝る文化」は少数派。圧倒的な多数派は「謝らない文化」だ。あれこれ屁理屈をつけて、謝ることを頑として拒否し、相手に責任を転嫁するのが普通だ。
 実例は掃いて捨てるほどある。夏休みの子供たちが多数犠牲になったドイツで起きた航空事故。スイスの管制局は「下降を指示したのにロシア機の反応が遅れたのが原因」と主張しているのに対し、ロシアの航空会社は「50秒前の指示は遅すぎる。事故の原因は管制局にある」と発言して、双方謝ることを絶対にしない。W杯で大量な空席が出た問題で、国際サッカー連盟が代理店バイロム社との癒着を棚上げして「日韓両国から競技場の空席データが遅れたのが原因」と非を認めないのと同じだ。
 外国では謝るということは、罪を認め責任をとり、その償いをすることを意味する。とてつもない損害賠償を恐れ絶対に謝らないのだ。だが日本の誤りは、相手に誠意を見せるためのジェスチャーだ。だから、そう抵抗もなく簡単に謝ることができる。謝るか謝らないかは、カネを払わなくてよいか、払わねばならないかの違いだ。


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43.スピーチ <2002年12月02日>
 何が慌てふためくかといえば、会合での突然のスピーチの指名である。喋りたくてうずうずしている人ばかりではない。前もって頼まれていれば、その会合に相応しい気の利いたセリフでも考えてくるが、ぶっつけ本番では、喋家のようんいアドリブがきかない。
 谷沢永一郎氏が、作家の阿川弘之氏の結婚披露宴でのスピーチに感嘆した、と紹介した文がある。こんな内容だ。ローマーの貴族は円型劇場の中に奴隷を放ち、ライオンをけしかけて食い殺される光景を見て楽しんだ。ある時ライオンに食い殺されそうになった奴隷が、ライオンの耳元で何かを囁いた。するとライオンは首をうなだれ、すごすごと引き返していった。驚いた貴族は奴隷を呼びつけ、お前一体ライオンに何を言ったんだと問い糺した。
 「<御馳走食べるのはいいけど、後でテーブル・スピーチさせられるよ>、そう申しました・・・」。見事なオチだ。大爆笑になったのは言うまでもない。阿川氏は前もって考えてこられたのだろうが、これは突然の指名を受けた時の参考になる。いくつかの小咄を用意して、その場に合わせて使い分ければ、何とか凌げるといういことだ。それでもオチをつけないと、せっかくのスピーチも生きてこない。


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42.職人芸 <2002年11月29日>
 木造住宅に携わっている人からお手紙を頂いた。「在来工法は呉服と同じように文化財としてしか生き残れないかも知れない」と書いたことに対する異議である。注文住宅の着工戸数(2000年43万戸)のうち65%が在来工法による木造住宅で、プレハブ住宅やツーバイフォー住宅を大きく上回るという資料が添えられてあった。
 住宅産業はマンション、建売住宅のようにどんどん既製品化されている。その中で注文住宅は建主の木の香りや手触りなどへのこだわりが強く、高グレード客の特注仕様には工業化住宅では対応できない。全国共通仕様住宅に対して、地場住宅会社は地域気候・風土・生活慣習の特注仕様住宅に強みをもっており、在来工法による注文木造住宅は全国ブランドメーカーに負けないと主張しておられるのである。
 感激したTV番組がある。大工の棟梁たちが厚さ10ミクロン以下の鉋削りを競う「削ろう会」を取り上げたドキュメントだ。いかに薄く木を削れるか、刃をどれだけ鋭く研げるか、が腕の見せどころ。研ぎは金属顕微鏡で刃先の仕上がりを見る。職人芸が光る番組だった。それが生かされるのは在来工法による木造住宅だが、職人芸の活躍の場が狭まっていることに寂しさを感じたのだ。


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41.住宅建築 <2002年11月28日>
 「一つの時代が終わった」という感慨を抱いたのが、住宅の名門・殖産住宅相互の倒産だ。在来工法の家は木の香りがして、そこには木造住宅の素晴らしさがあった。しかし価格が高い。在来工法の木造住宅は量産がきかないためコスト削減が難しいからである。
 低価格住宅を大量生産するようになった先駆者は米国のビル・レヴィットだ。彼は米海軍設営隊に入隊し、低コストの大量生産住宅を短期間に建てるノウハウをつかみ、第二次大戦後に住宅の大量生産に乗り出した。フォードの量産システムからアイデアを借用、単純作業で誰にでも組み立てられる方式を考案。全てを規格化した画一的な「レヴィットハウス」は驚異的な成功を収めた。「注文建築の市場は注文服の市場と同様、もはや存在はしない」は彼の有名な語録だ。
 プレハブ住宅はレヴィットハウスの延長線上にある。プレハブは「予め工場生産された」とういう意味のprefabricatedを縮めたもので、工場生産した部材を現場で組み立てる住宅を指す。規格化して画一的な形にするから量産がきく。木造注文住宅は大工さんが建築するものだが、都会では殆ど見かけなくなった。在来工法は、呉服と同じように文化財として残れないのかも知れない。


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40.テレビ依存症 <2002年11月27日>
 改めてテレビの威力を見せ付けたのが一連の「政治ショー」だろう。およそ外相としての資質はなく、人間としても問題がある「マキコ」ブームを演出したのがテレビなら、全国的には殆ど無名な小物でしかなかった「ムネオ」議員を悪役の大スターに格上げしたのもテレビだ。これで「世論」が作られるからおかしな話である。
 ウォルター・リップマンの『世論』(岩波書店)はおもしろい例をあげている。南の島にドイツ人とフランス人が仲良く暮らしていたとする。新聞は一ヶ月に一回しか来ない。たとえ現実に両国の間で戦争が始まったとしても、新聞が来るまでは、このドイツ人とフランス人は仲良く暮らしていける。ところが、新聞が一ヶ月分配達され、両国が戦争していることが分かった瞬間、2人は険悪な関係になってしまう。
 このように自分の目で認知するより、人々はマスメディア(今ではテレビ)で提供される情報で考えるようになる。これがテレビ依存症。テレビは「世論」という空気を作り出す。しかしテレビは次々と新しい情報を流さなければならないので、いつまでも古いネタに関心を示してはいられない。というわけで、テレビが作りだす空気は長くは続かない。これを「人の噂も75日」という。


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39.テレビ人間 <2002年11月26日>
 前回の続き。なぜ日本人選手は自己表現ができないのか。これははっきりしている。表現すべき言葉を持ち合わせていないからだ。喜びや悔しさを表したくないわけではなからう。しかし言葉の蓄積がないから、どんな言葉を使ったらよいのか分からない。ボキャブラリーが貧因なのはテレビで育った人間に共通していることだ。
 テレビが幼児的人間を増やしたのは間違いない。その特徴の第一は、お喋りは達者だがボキャブラリーが乏しいことだ。グルメ番組では早口でまくし立てるくせに、料理を口にしたら「おいしい」を連発するだけ。「おいしい」以外の言葉の蓄えはないのである。「うれしいです」としか言えない選手と同じだ。ボキャブラリー不足のため論理的に考えることができない。そのため好き嫌いの感情が強く出る。これが第二の特徴だ。
 テレビは好き嫌いの感情を植え付ける。正確な情報は残らなくとも印象だけは強く残るからだ。田中真紀子外相更迭の時がそう。外相の資質があるかどうかはどうでもよく、テレビがこぞって非難しているから、許せないとの印象は強く残る。マキコ好き、コイズミ嫌いの感情が支持率の低下を招いた。マキコ人気も自己表現ができないことも、ともにテレビが育てた幼児性だろう。


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38.自己主張 <2002年11月25日>
 前回の続き。なぜ日本人選手は自己表現ができないのか。これははっきりしている。表現すべき言葉を持ち合わせていないからだ。喜びや悔しさを表したくないわけではなからう。しかし言葉の蓄積がないから、どんな言葉を使ったらよいのか分からない。ボキャブラリーが貧因なのはテレビで育った人間に共通していることだ。
 テレビが幼児的人間を増やしたのは間違いない。その特徴の第一は、お喋りは達者だがボキャブラリーが乏しいことだ。グルメ番組では早口でまくし立てるくせに、料理を口にしたら「おいしい」を連発するだけ。「おいしい」以外の言葉の蓄えはないのである。「うれしいです」としか言えない選手と同じだ。ボキャブラリー不足のため論理的に考えることができない。そのため好き嫌いの感情が強く出る。これが第二の特徴だ。
 テレビは好き嫌いの感情を植え付ける。正確な情報は残らなくとも印象だけは強く残るからだ。田中真紀子外相更迭の時がそう。外相の資質があるかどうかはどうでもよく、テレビがこぞって非難しているから、許せないとの印象は強く残る。マキコ好き、コイズミ嫌いの感情が支持率の低下を招いた。マキコ人気も自己表現ができないことも、ともにテレビが育てた幼児性だろう。


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37.引き際 <2002年11月24日>
 ダイエーの再建がすったもんだの末にまとまった。創業者の中内功氏が築き上げた「ダイエー帝国」の解体だ。そうであっても、中内氏が流通革命の旗手として戦後最大の流通人だったことを否定する人はいないだろう。だが中内氏の最大の誤算は、息子を後継者にするという世襲経営にこだわり、引き際を間違えたことにつきる。
 昔から「リーダーは引き際を潔くしなければならない」と言われていたが、いざ実行となると、これほど難しいものはない。というのは、権力と金銭的報酬と名声を伴う地位を自ら退くということは、なかなかできないからだ。人間というものは弱いもので、成功が2〜3回続くと、自分を特別な人間と考える。おべっか人間が揉み手して集まるので、自分というものがまったくみえなくなってしまい、引き際を誤ることになる。
 かつて「木枯らし紋次郎」という人気TV番組があった。悪党から村人を助けた紋次郎は「あっしには関わりのねえことでござんす」と、長い爪楊枝をくわえながら去っていくが、あれこそが日本人が代々持っていた引き際の美学。惜しまれつつ退くのが日本人好みの鮮やかな引き際だ。しかし、これは外野席の観客がないものねだりで、当事者には、余計なお節介であるかも知れない。


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36.もたれ合い <2002年11月23日>
 ジャンケンが日本人の知恵だと言えば、そんなバカなと疑問を抱く人がいるかもしれない。もともとは中国の「蛇はナメクジを恐れ、ナメクジはカエルを怖がり、カエルは蛇を恐れる」からきている。この「三すくみ」が日本の組織論を見るうえで極めて重要なキーワードだ。
 「政財界のトライアングル」は日本の構造を説明する時に必ず使われる言葉だ。これは「三すくみ」の関係になっている。管が政に弱いのは、外務省が”影の外相”の族議員の言いなりなのを見れば分かる。財は管に弱い。金融庁の”鶴の一声”でダイエーの金融支援額が引き上げられたほど。政はスポンサーである財に弱いから、公共工事の受注に”口利き”をしたり、下請けに押し込んでやったりする。だがこれが重要なことだが、その逆の関係も成り立つのである。
 政は管の協力がなければ法律一本作れないし、国会答弁も満足にできない。管は威張りすぎると退官後の”天下り”先がなくなるから財に弱い。財は政を怒らせると、便宜を図ってくれないどころかシッペ返しを喰うから政には弱い。このように三者がお互いに強かったり弱かったりすることでは「三すくみ」の関係を超越している。これを「もたれ合い」という。


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35.医療費 <2002年11月22日>
 平成15年4月からサラリーマン本人の医療費の自己負担を3割に引き上げる法案を巡って、国会がすったもんだしている。サラリーマンが負担増反対と立ち上がったわけではもちろんない。医師会と族議員が反対の気炎をあげる。負担増になれば患者数が減り、診療収入減になるからだが、肝心のサラリーマンは我関せずの風情だ。
 なぜなら、医療費を払っているという意識が希薄だからだ。スーツを買う時には、いくら払ったか誰でも知っている。値段をしっかり見て値切るではないか。しかし医療費は値切らない。窓口で1,000円を払うだけでよいから、全体でどのくらいかかっているかは知らないし関心もない。このように医療費に対する意識はきわめて低い。その根源は保険料の「給与天引き」制度にある。
 もし保険料を給与天引きにせず、個人が給料から保険料を支払い、医療費も個人が全額病院に払った後、保険から払い戻しを受ける仕組みにすれば、サラリーマンの医療費に対する意識が高まる。その代わり医療費が高い。という不満が一挙に吹き出るのは間違いない。給与天引きが医療費の意識を薄めたのだ。その恩恵を受けたのが病院。出来高払いで収入が増えるため、検査漬けと薬の過剰投与が横行したわけだ。


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34.産地の偽装 <2002年11月21日>
 産地偽装は止まることを知らない。出荷時期と賞味期限さえ偽らなければ、どの産地でも一向に構わないと思うが、食肉に始まり豚肉、鶏肉、野菜まで産地偽装のオンパレードだ。産地を偽装した魚が出てくる可能性だってある。なぜ産地偽装が流行るかといえば、産地にこだわるグルメブームが大きな理由だろう。
 そもそも日本人にグルメは似合わない。世界に冠たる「早メシ」の食文化を持つ日本人は、ゆっくり歓談しながら食事を楽しむ文化とはおよそ無縁だからだ。日本人が発明したカツ丼、鰻丼、牛丼などの「丼もの」、ラーメンや立ち食いそばの「麺類」には情緒性はこれっぽちもなく、ただ胃袋に収めるだけのインスタント早飯料理だ。早メシ文化にどっぷり浸かってきたため、「おいし〜い」というい以外に料理を表現する言葉を知らない。
 このように料理を食べても自分では分からないから、写真入利の料理の本や「うまい店」と満載した本で情報を仕入れ、「行列ができている店で食べた」ということで満足する。グルメブームの招待とは「情報を食べる」ことにある。産地にこだわるのも同じこと。見分けはつかないくせに、ブランド産地の食物を有り難がるのは「情報を食べている」からだ。かくて産地偽装が大繁盛する。


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33.人災 <2002年11月20日>
 今回の雪印食品の牛肉の「すりかえ事件」で、一番ショックを受けたのはグループ2万人の社員とその家族だろう。前回の雪印乳牛の集団食中毒事件では9工場を閉鎖、1,000名の希望退職者を募集した。今回も業績にハネ返るから工場閉鎖、退職者募集は避けられない。
 かつては日本の企業には、悪や不正に対し強い仰止力が働いていたといわれていた。何も日本人が根っからの善人だからというわけではない。集団主義にどっぷり浸かっていたからだ。「俺が不正をしたら、家族や会社の同僚に迷惑をかける」という気遣いが不正に走る歯止めになっていた。周りの人の視線を気にすることが仰止力になり、人は簡単に不正に走らないという事情があったのである。
 今回の事件でもっとも不可解だったのは、抑止力が全く働いていない点だ。まっとうな神経の持ち主であれば、バレた時には、同僚や家族に迷惑をかけることが分かりそうなものだが、それが見られないのは不思議というほかはなかった。周りの視線を感じることができなくなり、集団主義の規範が溶けてしまったのかもしれない。その結果生じるのが、周りに迷惑をまき散らす「人災」だ。


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32.社訓 <2002年11月19日>
 多くの会社には「社訓」がある。そのルーツは江戸時代の商家の「家訓」に遡る。創業者や「中興の祖」と呼ばれる当主が、体験や苦労の中で得た経営理念を成文化したもの。家訓を子孫に伝えることで家業の永続を念願したものだ。家訓の精神を引き継いだものが「社訓」だが、その経営理念が生きているかどうかは別問題だろう。
 雪印グループの経営理念は創業者の黒沢酉蔵氏の「牛飼三徳」に示されている。黒沢氏は若い頃。足尾鉱毒事件の田中正造氏に心酔、鉱毒地の救済運動に奔走した熱血漢。「役人に頭を下げず、牛に嘘を言わず、酪農は健康に良い」が「牛飼三徳」。牛を相手にしているから役人にペコペコするということもないし、嘘を言わなくてもよいという意味。とりわけ力を入れたのが品質保持。酒や煙草は味覚や嗅覚をダメにするという理由から、品質を守るためには禁酒禁煙を入社の条件にしたほど。
 黒沢氏は効率よりも品質を優先した。酪農家が品質が劣化した牛乳を持ち込むと、目の前で捨てるほど厳しかったという。一連の雪印グループの事件を目にすると、創業者の経営理念からいかに遠くに行ってしまったかが分かる。消費者に嘘をつき品質管理はおざなり。創業者が「社訓」として残した経営理念は風化してしまった。


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31.羊頭狗肉 <2002年11月18日>
 「羊頭を懸けて狗肉を売る」という。狗肉とは犬の肉のこと。韓国では今でも犬の肉を食べるが、中国でも犬を食べる習慣があった。食用の肉にはランクがあり、犬の肉は羊の肉より遙に下だった。羊の頭を見せておいて犬の肉を売るのは「看板に偽りあり」ということになる。レッテル張り替え詐欺だ。
 こういうレッテル張り替えは日本人のお家芸だ。どの宗教にも食物規制(食べてはいけないもののリスト)があるが、日本では状況でコロコロ変わる。徳川時代には獣の肉を食べてはいけないという規制があった。そこで当時の日本人はレッテルを張り替えた。野兎の耳は鳥の羽じゃないか。なら兎は鳥だから鳥肉なら食べてよい、と抜け道を考えたのだ。兎を一羽、二羽と数えるのはその名残り。猪を山鯨と呼び、猪を食べたのと同じである。
 その伝統を見習ったのではないだろうが、雪印食品はレッテルを外国産から国産に張り替えたばかりか、北海道産を熊本産として出荷していた。「看板に偽りあり」ということで現代版の「羊頭狗肉」商法だ。その挙句が食肉事業からの撤退。これを「一文惜しみの百損」(細かい損は正確に計算するが、大きな損は想像を超えているので計算に入れていないの意味)という。


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30.ニセ札 <2002年11月17日>
 今年に入り東京、大阪、静岡でニセ1万円札が大量に見つかった。ニセ札の偽造はこれまでカラーコピー機で読み込んでパソコンやプリンターを使う手口が主だったが、今回見つかったものは、版下を作り、印刷機械で大量に刷られた精巧なもので、外国の偽造グループにより海外で大量に偽造された可能性が高いといわれている。
 海外でニセ札作り日本に持ち込んだといえば、明治11年に起きた日本のニセ札史上最大の事件がある。400倍の顕微鏡で拡大してやっとニセ札と分かる精巧なものだったそうだ。疑惑の人物として逮捕されたのが、西南戦争で巨利の富を得た政商の藤田伝三郎。政治家の井上馨が外遊中にドイツで印刷し藤田に送ったものと言われたが、実業家の五代友厚の活躍で藤田の無実を晴らすまで井上・藤田犯人説が信じられていた有名な事件だ。
 ニセ札は国家が相手国の経済を混乱させる謀略としてよく使う手だ。日本も前科がある。戦時中、日本陸軍は中国のニセ札を作ってバラ撒いた。中心人物の日本人実業家は、上海の暗黒街を支配する秘密結社の幹部と結婚し、その結社と組んで実行したことが、戦後明らかになった。今回の成功に作られたニセ札一万円札も、どこかの国が仕組んだ謀略を思わせるところが不気味だ。


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29.ゆとり教育 <2002年11月16日>
 「ゆとり教育」をスローガンに公立小中学校の完全週休二日制がスタートして約半年。子供の「ゆとり時間」の過ごし方は、文化施設や習い事に通ったりイベントを体験したり、塾で勉強したりと様々。学力の低下を心配する親は少なくないから、親の方には「ゆとり」がなさそうだ。それにしても「ゆとり」とは何だろう。
 社会の文化は何に「ゆとり」を感じているかということに、その特徴を見ることができる。ヨーロッパでは、ラテン諸国に代表される「シェスタ」という習慣がある。昼食時間には仕事をやめて、1〜2時間ゆっくり家族と食事を楽しむ。これが彼らの「ゆとり時間」。立ち食いそばを3分で平らげる日本のサラリーマンを見たら、「何とゆとりのない国民だ」と思うだろう。だが日本の社会には、あちらにはない「ゆとり時間」がある。お風呂だ。
 ヨーロッパでも、サウナ好きな北欧の人はいるが、大半は入浴の楽しみが殆どないといってよい。ところが、われら日本人はのんびりとお風呂にはいるところに「ゆとり」を感じる。ゆっくり湯につかって味わう開放感に「ゆとり」を見い出すのだ。露天風呂の人気は、いかに風呂好きかを示している。「ゆとり教育」は露天風呂に親子がゆったりとつかるところから始めたらよい。


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28.肩書き <2002年11月15日>
 日本人は肩書きが大好きだ。肩書きに挨拶し、肩書きにお辞儀し、肩書きに付け届けする肩書き社会だ。先日、定年退職した学校の先輩とあったが、差し出された名刺には「○○町内会事務局長」など、いくつかの肩書きが並んでいた。サラリーマン生活からの足を洗っても肩書きとは縁が切れないようなのである。
 肩書きには栄枯盛衰がある。会社では社長、専務、常務などの肩書きが定番だが、どの会社も同じ肩書きだから、有難みが薄れる。そのため人気が高まっているのが希少価値のある肩書きだ。鈴木宗男議員側近の外務省官僚の肩書きは「主任分析官」。情報分析のプロを思わせる肩書きだ。経済アナリストの「主席研究員」とか「チーフエコにミスト」という肩書きも、これと同じ。独創的な分析に冴えがなくても、部長や課長の肩書きで喋るよりは重みを与えることができる。
 階層社会では、差をつけるための手法が考案された。かつては誰が見ても分かる服装だった。武士と承認のように服装で区別した。今は階層によって服装が決まっているわけではないから、服装で見分けるのは難しい。結局、区別するのは肩書きしかない。肩書きを重んじる理由だ。それなら自前の肩書きにこだわった方がいい。


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27.地位の不安 <2002年11月14日>
 会社員の自殺が増えている。警視庁のまとめによると、管理職などの会社員が自殺者の38.7%を占めた。事態を重視した構成労働省が調査に乗り出した。全員が仕事に何らかのストレスを感じているが、それだけでなく「周囲とのコミュニケーション不足で孤立しているのではないか」と分析している。まさに「地位の不安」だ。
 一定の地位を獲得した人につきまとう不安を「地位の不安」という。管理職などの「役」につくと縦・横の圧力が強くなる。いつ、どこから圧力がかかるか分からない。そのため、いろいろ対人関係を調節する。相手により割り切ったり、義理人情を重んじるという気配りをしても、いつ、どこで突き落とされるか分からない。孤立感を深め神経は消耗。これを「地位の不安」という。
 日本には、この不安を解消する知恵があった。「厄年」はその典型。厄年はもともと「役」が回ってくる年のことで、責任が重くなるので「役」を「厄」に置き換えて使うようになった。この役年が42歳、管理職になる時期だ、役年には知人が集まり飲み食いしたが、これは役についても孤立させないための知恵だった。しかし、現代ではそんなコミュニケーションが消え、管理職になったとたんんに孤立するようになった。


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26.余暇 <2002年11月13日>
余暇というとアメリカ人は労働から解放された自由時間を、フランス人だとバカンス旅行を思い浮かべるそうだ。では、我々日本人は何を思い浮かべるだろうか。まあ、色々あるだろうが、余暇にはカネがかかるということではないだろうか。
 かつての日本人はカネをかけないで楽しむ知恵があった。「見物」がそれである。見物とは文字通り物を見るということ。四季折々の自然の移り変わりをタダで見ようというものだ。春は花見、夏は川開きの花火、秋は菊見に紅葉狩り、冬は雪見と、年中行事のように見物に出かけた。昔の人がなぜか見物にしゃかりきになったかといえば、見物にはカネがかからなかったからだ。桜を見ようが雪を見ようが、すべて無料。カネをかけずに楽しむ術を知っていたのである。
 だが、現代の余暇にはおカネがかかる。映画を観るにも、テーマパークに出かけるにもカネがいる。余暇でさえも今日では消費の対象。カネをかけないと楽しめないのだ。それでは面白くないので、無料への回帰が強まってきた。最近ブームのガーデニングは、手作りで育てた季節の花々を見て喜ぶことでは、あまりにカネをかけずに楽しむという「見物精神」の復活である。


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25.スリッパ <2002年11月12日>
 仕事中のスリッパ履きは厳禁・・・。長崎氏が勤務時間中の職員のスリッパやサンダル履きを禁止する通達を出したという記事が目に止まった。市民や市議会から「だらしがない」「パタパタと音がして不快」と苦情が出たためらしい。民間企業はスリッパ履きを禁止しているが、最大の理由は「緊張感がない」と見えるからであろう。
 お役人がスリッパ履きかえるのを理解できないわけではない。もともと日本の履物は下駄や草履のように足の裏を保護するためのもので、靴のように足を包むためのものでなかった。靴の履きっぱなしは疲れるため、靴を脱いで、やっと落ち着くという生活習慣をもっている。スリッパに履きかえるのは、日本人の伝統に適ったものだ。だが、同時に欠点がある。足が楽になるため緊張感が失われることだ。米国のビジネスマンも職場で履きかえるが、考え方は日本とはまったく逆。
 あちらでは、通勤時には歩きやすいものを履く。スニーカーでの通勤も珍しくない。ところが、オフィスに入ると男性はビジネス用の紐付きの靴に、女性ならヒールのある靴に履きかえる。戦場である仕事に臨むのに、気分を引き締めるためだ。武士が重い兜の緒を締めたまま臨戦態勢を維持したのと同じ心構えだ。


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24.資格  <2002年11月11日>
 資格ブームと言われている。管理職の昇進条件に英語力をあげる会社もあれば、採用条件にパソコンの資格を取り入れている会社もある。資格にはパソコンの文章処理能力二種三級の検定をはじめ何千とある。リストラに負けない為「資格をとりたい」。これがスキル(技能)アップを目指すサラリーマン、OLの願いだそうだ。
 資格とは何かというと、最低限ここまでの能力に達したということを証明するもの。それ以上でも、それ以下でもない。早い話が運転免許を考えれば分かり易い。自動車学校に通い、免許センターで試験を受け、合格すると晴れて免許がもらえる。しかし、車の免許を取得したということが、名ドライバーであるということを証明したものではないのは、言うまでもない。ただ車の運転ができる、という程度である。
 ところが何を勘違いしたのか、免許を取得したとたんに高速道路をぶっ飛ばし、ハンドルを取られて激突死する若者が後を絶たない。運転免許証をレーサー並みに運転できる能力の証明と思い上がったのかもしれないが、親はたまったものではなかろう。資格も自動車の免許と同じ。上の能力を証明するものではなく、下の能力を証明するものだ。資格とは「若葉マーク」である。


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23.支持率  <2002年11月10日>
 ものを決めて行動する時には、感覚で決める場合が少なくない。自分がこういう行動をしたら、こういう結果になるだろうと、結果を十分に予測して選択する場合もあるが、たいていは直感的、感情的、衝動的に決めるのではないか。というのは内閣支持率の推移のグラフを見ていて、その決め手は「感覚」であると思えたからであだ。
 小泉内閣は発足当時、90%の高い支持率を誇っていたが、田中外相の更送をきっかけに支持率は急落、今では40%代に留まっている。(現在は60%代か?)急上昇と急落をもたらしたのは、「感覚」以外に考えられないのだ。我々が選択する時の基準は三つある。一つは、正しいか正しくないか。二つは、得か損か。得になれば行動するし、損になれば行動しない。これが多数派の選択基準となっている。
 ところが、豊かな社会になって台頭してきたのが、第三の選択基準。好きか嫌いかである。好きだからする、嫌いだからしないという、極めて感覚的な基準だ。かつては、得か損かで選ぶ方が、隙か嫌いかを上回っていたが、最近は得か損かで選ぶより、好きか嫌いかで選ぶほうが優勢になってきた。「感覚」が前面に出てきたのだ。その結果、内閣支持率は乱高下することになった。


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22.エチケット  <2002年11月9日>
 中国に出かけた観光旅行者が最も戸惑うのがトイレだそうだ。天安門でも万里の長城でもトイレに困る。とにかく汚い。悪臭が立ち込め、あまりの不潔さに辟易するという。これを聞いて、思い浮かんだのが「エチケット」の語源である。
 200年前のロンドンやパリは、今からは想像できないほど不潔な街だった。ルーブル宮殿やヴェルサイユ宮殿にはトイレがなかった。紳士淑女がトイレ代わりにいたのが大庭園。貴婦人が着用しているスカートに輪がいくつも入っていて、丸く広がるようになっているのは、おトイレのため。舞踏会で軽やかなステップを踏んでいる時に催ししてきたら、大庭園の茂みに駆け込む。貴婦人はこのスカートを利用して用を足し、しんしは立ち小便をした。これに音を上げたのが庭師だ。
 毎日、庭を手入れしても、紳士淑女達に花壇は踏み荒らされ、あちこちに糞尿の山ができる。丹精を込めた花壇を糞尿付けから守るために、庭師は一計を案じた。トイレ専用の場所を指示する札を立てたのだ。その札をフランス語で「エチケット」といったので、礼儀を守ることをエチケットと表現するようになった。立ちション禁止からエチケットは生まれたわけだ。


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21.トーク番組  <2002年11月8日>
 テレビにトーク番組がある。相反する意見を持つ出席者が、その時々のホットなテーマを論じる。しかし、およそその論点が噛み合わず、言いっ放しで終わるのが普通。これは日本人が論争術を持っていないせいだろうと思っていたが、その考えを改めた。これは漫才なのだと。
 哲学者の鶴見俊輔氏は『太夫才蔵伝一漫才をつらぬくもの』という面白い本を書いている。それによれば、ボケとツッコミの漫才は、古代芸能の翁と奴、能のシテとワキ、狂言の主人と太郎冠者の末裔というのである。文化的な優位者と劣位者の「絡み」を原型としているからだ。海外の新しい文化を身につけた支配層の語りは、理路整然としているように聞こえ、すぐには言い返しができない。そこで両者のやりとりは、型通りのもの言いに対する、すれ違いの展開になるというわけだ。
 トーク番組のやりとりを、ボケとツッコミの「絡み」と見れば分かり易い。そのすれ違いが漫才のおかしさであるが、それは視点の相違から生まれる。トーク番組も出席者の視点は異なる。本人たちはボケやツッコミのつもりはなかろうが、話が噛み合うことはない。すれ違いの「絡み」をウリとするトーク番組は「ザ・漫才」だ。


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20.システム障害  <2002年11月7日>
 「物事は、狂う可能性がある時は、狂ってしまう」とは、有名『マーフィーの法則』。最悪な金融トラブルに発展したみずほフィナンシャルグループのシステム障害についての『日経産業新聞』(4月9日号)の記事を読んで、コンピューターの知識がなくても合点がいった。『マーフィーの法則』そのものだったからである。
 同紙によると、システム統合に当たって旧富士、旧一勧、旧興銀が主導権争いをした。基幹システムは富士がIBM製、一勧が富士通製、興銀は日立製。一旦は一勧・富士通連合が勝ったが、猛烈な巻き返しで完全なシステム統合ができなかった。そのためリレーコンピューターでつなぐ暫定方式をとった。ATMの障害は、リレーコンピューターと呼ぶ中継器のプログラムで生じたという。システム障害は三行間の主導権の争いの結果だった。
 基幹システムが統合できずに、性格が根本的に異なる各行のシステムを中継器でつなぐという「足して三で割る」解決をしたから狂わない方が不思議。システムは狂う可能性があったから狂ってしまった。『マーフィーの法則』には今回のシステム障害を予測するような法則もある。「幾つかの物が狂ってしまう可能性がある場合、最初に狂ってしまう物は最大の害を与える物である」


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19.馬 鹿  <2002年11月6日>
 「毎度、ばかばかしいお笑いを」と噺家は枕をふれなくなる。来春の高校国語の教科書検定で、文化省が山田詠美さんの作品中の「馬鹿だから」というセリフが「差別的」と意見をみつけたため、出版社は別の作品に差し替えたという。
 「馬鹿」は「鹿を指して馬となす」の故事からきている。秦の始皇帝の死後、実験を握った趙高は知能が足りない二世皇帝を立てて操っていたが、ある時部下に命じ鹿を引いてこさせ「陛下に馬を献上します」と言った。頭の弱い皇帝でも馬と鹿の区別がついたので「これは鹿ではないか」と一同に同意を求めた。趙高はジロリと臣下を見渡した。そして趙高に合わせ「陛下、これは馬でございます」と言ったものは助け、「陛下の仰せの通り鹿でございます」と言った者はことごとく殺したという。
 この故事から庶民は処世術を読み取った。魂胆があって「鹿を指して馬」と言った権力者に逆らい、「これは鹿です」と答え殺されたのだから、バカ正直もいいところだ。広沢虎造なら「バカは死ななきゃ治らない」と浪曲で唸るだろう。だが、庶民は生きるには「鹿を指して馬となす」ように、自分がバカになることが処世術と心得たのだ。「私バカよね、おバカさんよね」である。


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18.コンビ  <2002年11月5日>
 外国の刑事物の映画を見ると、刑事は必ず二人一組で行動をしている。一匹狼の刑事が女性刑事や若僧の刑事とコンビを組まされ、足手まといだと迷惑していたのに、相方にピンチを救われたことから、相性のいいコンビになるというのは、よくあるストーリだ。なぜうまくいくようになったかについては、それなりの理由がある。
 人と人の関わり方には二つのタイプがある。一つはシンメトリカル(対称的)な関係。徒競走を思い浮かべればよい。駆け出せば順番はつくがスタートラインは同じ。このように平等な立場で作られる関わり方をいう。もう一つがコンプレメンタリー(相補的)な関係。能のシテとワキの関係と考えればよい。二人は同一場面で競争的な関係にあるわけではない。シテが主人公で、ワキはその補助的な役割を果たすという関わり方だ。
 刑事映画のコンビは、シンメトリカルではなくコンプレメンタリー関係になる。主になる刑事とそれを脇で支える刑事。二人が補い合いながら事件を解決するのだから、競争関係にはない。相補的な関係だ。会社では営業がコンビを組むことがあるが、これも同じ。コンビが競争適な関係になるとたいていダメ。コンビがうまくいくのはお互いが補い合っていく相補的な関係である。


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17.右寄り左寄り  <2002年11月4日>
 エスカレーターに乗る時、右側に寄って左側を空けるかで土地柄が分かる。関西圏は右寄り、首都圏は左寄り。大阪人が東京に、東京人が大阪に出かけた場合、戸惑うことになる。
 右側通行、左側通行の起源について面白い説がある。日本が左側通行になったのは、サムライが左に刀を差していたからだというわけだ。右側通行だと、すれ違った際に鞘が当たり喧嘩になる。左側を歩けば、鞘はあたらないし、いざというとき右手で刀を抜きやすい。それで左側通行になった。ヨーロッパは同じ理由で左側通行だったが、右側通行に変わった。その逆転をもたらしたのはピストル。ピストルは右の腰に下げ、右手で打つから、使いやすいように右側通行になったというのである。
 説得力がある説だ。それに従えば、右手の使い勝手のよさが、右側通行、左側通行を決めたことになる。エスカレーターでも同じ理由が考えられる。右より左空けは、右手で手摺を掴み易いからで、左側より右空けは右手に荷物を持ちやすいから。その慣習が簡単に変わるとは思えないが、けしからん所業は共通している。ペチャクチャお喋りに熱中して通路を塞ぐおばさんや女子高校生だ。


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16.風呂敷  <2002年11月3日>
 今では、風呂敷を抱えた人を街で見かけることはなくなったが、風呂敷の愛用者が最も多いのは法曹関係者だ。ある事件を傍聴したとき、裁判官、堅持、弁護士が一斉に風呂敷を開いたので驚いた。事件資料が多くなれば鞄に入りきらないが、風呂敷だと資料が多くても少なくても、包むことが出来るので重宝されているのだろう。
 風呂敷には日本人の美意識が詰まっている。日本人の礼儀の中で、お金を人に渡す時、剥き出しでは相手に失礼だという考えがある。ご祝儀や花代を渡す際、お金を紙に包んだり袋に入れたりして渡す。これは贈り物についても言えることだ。贈答品を持っていくのに使われたのが風呂敷だった。お菓子を風呂敷に包み、それを解き「つまらないものですが」と差し出すではないか。
 日本人には包むのは丁重だという考え方がある。これは、もともと神に物を捧げたときの形が礼儀として残ったもの。その美意識から風呂敷で包む習慣が生まれた。最近は風呂敷で包むという習慣は消えていったが、風呂敷を広げるのは相変わらずだ。風呂敷は衣類、箱、瓶、球形のものまで、何でも包み込む。そこから、実行不能な大言壮語を吐くことを「大風呂敷を広げる」という。


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15.ラーメン <2002年11月2日>
 バブル崩壊後に、一人勝ちしたのはラーメン。ご当地ラーメンを一堂に集めたフードテーマパークには長い行列ができる人気だ。英国の国語辞典に当るコリンズ・イングリッシュ・ディクショナリに日本語「Ramen(ラーメン)」が掲載された。今や国民食になったラーメンだが、これは日本の作り変え文化の典型だろう。
 ラーメンの元祖は横浜の架橋居留地(今の横浜中華街)の「柳麺」。これが訛ってラーメンとなったという説がある。この広東風スープ入り中華そばは豚と油をたっぷり使っており、日本人の舌にはなかなか馴染めない。ここで変え能力を発揮。スープを日本風の味に変えてしまった。鰹節は昆布、醤油で味をつけたスープに、チャーシューやメンマのほか、なると、のり、わかめなど日本風の具をのせた。和風ラーメンの誕生である。
 今日でこそ、みそ、塩、とんこつ、鶏がら、魚介など、バラエティ豊かなラーメンスープがあるが、醤油味にしたのが、日本人がラーメンを受け入れた最大の要因になった。自分たちが馴染んだ味に会うように作り変えたわけだ。外見は同じだが中身はまるっきり違うように作り変えるのは日本人のお家芸。ラーメンを中華料理とは似て非なる和風ラーメンに仕立てたのである。


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14.千 両 <2002年11月1日>
 テレビの時代劇を観て、一番戸惑うのはお金の感覚だ。現在の価格でいくらなのかが分からない。悪代官が悪徳商人から「百両」の賄賂を受け取ったり、大泥棒が商家に押し入って、「千両箱」を盗んだりするのは時代劇の定番だが、これが多いのか少ないのかピンとこない。つらつら考えて、この方法なら掴めそうだ。
 江戸時代の小判にはいろいろな種類があるが、理想的な一両小判の純金量は約4匁である。金の相場は激しく動くが、現在の金1gの価格は約1,300円・1匁は3.75gだから1,300円×3.75×4=19,500円。つまり、一両は現在の約2万円になる。「百両」は約200万円、「千両」は約2,000万円。大泥棒が「千両箱」を5箱担いでいたら、約1億円を盗んだと見なせば、的外れとはいえない。
 江戸時代の後期には、吉原の花魁(おいらん)一夜の場代は十両だったそうだ。現在の約20万円に相当する。これに同額のチップが要るから、吉原で遊ぶには最低約40万円は必要。生活費が二分程度(一両の半分で約1万円)の庶民には手が出る世界ではなかったことが分かる。
一両を一生みることがなかった江戸の庶民には、現在の会社員は豪商に映ることだろう。月給20万円は十両、40万円は二十両の高給取りだ。


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13.風 土 <2002年10月31日>
  欧州を襲った洪水の被災地域はチェコ、オーストリア、ルーマニア、ドイツに広がっている。平年の7〜8倍の雨量によるものだが、その雨量を見て驚いた。2週間の雨量が100〜200mmぐらいなのだ。この程度の雨量なら、日本では梅雨末期の集中豪雨や台風の時期には1日で降る。記録的な大水害は500mmを超えないと起きない。
 これは河の構造が日本と欧州では大きく異なることによる。欧州では200mm程度の雨量で洪水になるのは、河が長く傾斜が緩やかなため、一度降った雨が流れずに溜まっていくからだ。日本は300〜400mmの集中豪雨で洪水、山崩れなどがしばしば起きるが、降った雨が長時間残ることはない。河が短く傾斜が急なため、雨は海に流れて水はすぐに引く。荒れ狂っていたのがウソのように、川の流れはもとの姿を取り戻すのである。
 この自然が日本人の性格に影響を与えたことは、言うまでもない。台風や集中豪雨は他人の悪意とは無関係にやってくるから、自然災害は「仕方がない」と受けとる。その一方で、洪水があってもすぐ引くので立ち直るのも早い。つまり自然災害など苦痛を伴う諸々のことは、それが終わればさっさと忘れてしまう、ということだ。その性格は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」となる。


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12.平成三十年 <2002年10月30日>
 読書の後、意気消沈したのが堺屋太一氏の近未来予測小説『平成三十年』(上下、朝日新聞社刊)。経済の地盤低下が進み、財政赤字・貿易赤字・企業赤字が膨らみ続ける日本のショッキングな未来像。そこに出てくる数字を見ただけで、目の前が暗くなる。
 日本の一人当たりの国内総生産が世界最高といわれたのは、昔の話。平成三十年には国内総生産はアメリカの半分、EUの70%。アジアでは台湾、シンガポールに次ぐ3位で、韓国と同水準。「世界の工場」となった中国の比較ではもっと著しい。10倍以上に開いていた国民総生産は8割以下。日本が巨額黒字から大赤字になったのとは逆に、中国の国際収支は20%。少子化高齢が進み、日本は「老人国」になるという未来像だ。
 堺屋氏は後書きで「最もあって欲しくない日本」を描いたと記す。この10年「改革改革」と言われながら、現実の世の中は根本では変わらなかった・変わらなかったのは官僚主導体制と安全、平等事勿れの思想。そのため「何もしなかった日本」は、確実に「経済文化敗戦」を迎えるという警告だ。これを読んだら将来に希望が持てないので、子供を生まない若い夫婦が増えそうだ。


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11.新 札 <2002年10月29日>
 「聖徳太子」の復活はならなかった。新紙幣が発行されることになった。1万円の福沢諭吉と2000円札の紫式部はそのままだが、5000円札は新渡戸稲造から明治を代表する女性作家の樋口一葉、1000円札は夏目漱石から世界的細菌学者の野口英世に切り替わるという。『聖徳太子』の復活論者としては、誠に残念というほかはない。
 紙幣は、ローマのテッセラ(メダル)がシーザーの肖像を揚げて以来、今日まで、その社会のシンボリックな人物を描いてきた。イギリスのポンドにはエリザベス女王、アメリカのドルにはワシントンが描かれている。こういう人たちは『エライ人』だからお札の肖像になったのではない。共同体の「保証人」なのだ。新紙幣に登場する2人は,その分野では一流の人物だろうが、共同体の「保証人」には荷が重いのではないか。
 野口英世は金持ちの娘と婚約し持参金をもらったのに婚約は不履行、支援者からの多額の借金を踏み倒し、アメリカに逃げた。樋口一葉は、妾になることを要求する佐賀某に借金を申し込む、という大胆な行動をとった。こういった人間臭さに親近感を持てるが、「保証人」となるとピンとこない。共同体の「保証人」に相応しい人物は唯一人。「聖徳太子」だけである。


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10.テレビ時間  <2002年10月28日> 
 日曜日の夜、サッカーW杯の決勝をテレビ観戦した。実は最初から最後まで通して観たのはこの試合だけ。ほかはニュースでさわりのゴールシーンを観たのみ。普段は朝の天気番組以外あっほとんど観ないから、テレビの視聴時間はちょっぴり増えた。人々もテレビをあまり観ないと考えていたら、そうではないようなのだ。
 NHKは5年毎に「国民生活時間調査」を行っているが、2000年の調査によれば国民全体のテレビ視聴時間は過去最高なのだ。テレビがまだ珍しく、家族でテレビにかじりついていた時代より視聴時間が多いとは信じ難い。テレビを長時間観る高齢者が増えたことや、日常生活が「宵っぱり型」になったことが、視聴時間を押し上げたのは十分に考えられる。だが最大の要因は別にある。
 時間に追いかけられる世の中で、テレビの視聴時間が増えているのは、独断と偏見で言えば、日本人が「無趣味」だからだ。趣味をもっていたら、テレビを観る暇はない。ガーデニングが趣味であれば、花作りに熱中するだろう。そちらの方がずっと面白いし魅力がある。だが、大半は趣味らしきものがないため、暇潰しにテレビを観る。履歴書の趣味欄に「無趣味」と書く人がテレビ視聴時間を支える最大の功労者だ。


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9.菊と刀  <2002年10月27日>
 『菊と刀』出版社、社会思想社の破綻の報を耳にして、思い浮かべたのが米国の文化人類学者、ルース・ベネディクト女史のこの本。日本を「恥の文化」と規定して、西洋の「罪の文化」と対比した日本人論の古典として有名。学生時代に読んだ時、日本が米国に戦争で負けたことに納得した覚えがある。
 というのは、この本は戦後の占領政策の必要性から生まれたものだったからだ。第二次大戦中、米国は占領後を想定して敵の国民性の研究に学者を動員した。ドイツを研究した精神分析学者E・フロムは『自由からの逃走』を、日本を取り上げたベネディクト女史は『菊と刀』を著した。「日本人はアメリカがこれまでに国をあげて戦った敵の中で、最も気心の知れない敵だった」と書き始めるのは。戦争の産物にほかならなかった。
 孫子に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という有名なせりふがあるが、『菊と刀』は「敵を知る」ための研究書だ。米国は「孫子の兵法」を実践していたのである。これに対し日本は、英語を敵国語として禁止、外国本を読むものを非国民として取り締まった。孫子は敵を知らず、己も知らなければ、必ず負けるという。日本が敗戦したことに納得した理由である。
現在の中国の経済的は発展は、意外と中国の方々がこの「孫子の兵法」を知り、目的に向かって戦いに勝ち進んでいるからではないか?と思うのです。
日本でも、多くの戦国武将が愛読したと言われ、海外でも、かのナポレオンが、「孫子の兵法」を座右の指南書にしたと言われています。また、ドイツのウイルヘルム二世は、戦いに敗れた後、「20年前にこの本を読んでいれば」と残念がったといいます。
投資の世界でさえ、コレを戦略、人間関係、心理などの基本にしているとのこと。
一般的に「彼を知り、己を知れば百戦危うからず」が良く知られています。また、「彼を知らずして、己を知れば一勝一敗」とも言われます。それは、まず自分(自分の属しているところ)を知ることの難しさがいかばかりなものか?というこにも繋がるでしょう。一勝一敗が最善とも言えるかも知れませんね。

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8.言葉遣い <2002年10月26日>
 言葉遣いには本来のものと、それから外れた誤用のものがある。文化庁の調査では、本来、寒さや恐怖などに用いる「鳥肌が立つ」を、感動したことに当てはめる言葉遣いが増えているという。「鳥肌が立つ」を感激した時に使うとは知らなかったが、どんな時に使ってよいのか分からない言葉は少なくない。
 「あの人は気が置けない人だ」。これをどういう意味で用いているか。面食らう人も多かろう。相手に気を使う必要がなく、気を許せて「気楽に付き合える人」というのが本来の使い方だ。しかし、そうとばかりはいえないから難しい。今では「油断のならない人」とか「信用が置けない人」という意味で使う人が多数派を占めているという。「気を付ける」や「気が抜けない」など、気を許すことが出来ない相手という言い回しだ。
 時代によって言葉は変化するから、そういう言葉遣いがあっても不思議ではないが、意味が全然違うというのは困る。「気楽に付き合える」という意味で「あの人は気が置けない人ですよ」と誉めたつもりが、「油断のならない人」と貶める言葉と受け取られる可能性もあるからだ。言葉は人間関係のトラブルの素。まったく逆の意味をもつ言葉を使わない方が無難かも。


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7.産 地 <2002年10月25日>
牛肉の産地偽装問題以降、にわかに関心が集まったのは「産地」の定義。「産地」には生まれが物を言うのか、育ちが重要なのか。どこで生まれたか、を表示すると考える人が多いだろうが、これは違う。「産地」とは。どこで育ったかの肥育地で表示するものだそうだ。
 「松阪牛」「近江牛」「神戸ビーフ」といえばブランド牛として名が高いが、生まれはそこではない。兵庫県但馬地方と淡路島で生まれた但馬牛が、これらブランド肉牛の素牛だ。但馬牛は『続日本記』でも絶賛されている肉牛のエリート。典型的な松阪牛は、生後7ヶ月から8ヶ月の但馬牛の講師を購入し、約3年間農家の手で肥育される。牛の食欲増進のためビールを飲ませたり、焼酎でマッサージをするのは有名。出生は但馬だが、産地は肥育地の松阪で表示されるのである。
 同じ但馬牛でも肥育地によって松阪牛、近江牛、神戸ビーフのブランドで呼ばれる。これは紛らわしいし消費者には分かりにくい。ならば相撲方式を取り入れたほうがいいのではないか。相撲の力士は「北海道出身、高砂部屋」という具合に表示される。出身地が出生地で所属部屋は肥育地だ。だから肉牛の産地も生まれと育ちを表示すると「松阪牛、但馬牛出身、三重県部屋」となる。


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6.ハングリー精神 <2002年10月24日>
 勝ったことよりも負けたことの方が、特大ニュースになるのがフランスのW杯予選敗退である。覇者が1点もあげることができなかった。「1人のスーパースターに頼りすぎた」「平均年齢が30歳で選手の世代交代が遅れた」と論評は賑やかだが、納得できたのは「選手がリッチになりハングリー精神が薄れた」というものだった。
 ハングリー精神が失われたのは、われら日本人も同様。あらゆる調査が若い人たちの間に無気力、無意欲が広がっていることを示している。「努力や訓練が必要なことは、あまりしたくない」と考えている10代は、5年前より倍増し2割を超えたという調査結果もある。
格付け会社が「投資不適格」に格下げしても文句をいえない参上だ。なぜ、こうなったか。豊かな社会の中で、子供をどう鍛えていくかのノウハウをもっていなかったからである。
 昔から庶民は子供の教育に熱心ではなかった。それでも努力をする子供がいたのは、貧乏から抜け出すには我慢と努力しかなかったからだ。これがハングリー精神を生んだ。「貧乏」が最高の教育者だった。しかし、豊かな社会になり「貧乏」に代わる教育者はいない。ハングリー精神を失えば、行き着く先は「売家と唐様で書く三代目」。祖父の代で財をなしても孫の代には没落する。


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5.風 <2002年10月23日>
朝晩はめっきり涼しくなった。この頃の季節感を詠んだ和歌に『古今和歌集』の「秋来ぬと目にはさやかに見えぬども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)がある。
これは最も知られている和歌の一つ。目の前の景色だけでは、秋が来たとは分からないが、吹く風の音を聞くと、さすがに秋であると感じられるという意味だ。
 大宮人の世界では、風により秋の気配を感じるかどうかが、風流人であるかどうかの分かれ目だった。野暮な現代人は風流とあまり縁がないが、それでも「風」には敏感だ。
「風向きを知る」ことが処世術になっているからだ。政治家は世論の風向きを気にするし、サラリーマンは社内の風向きに神経を尖らせる。それに逆らったら、ろくなことはない。目に見える前に、風の気配で動きを感じ取ることが必要なのだ。
 なぜ風に敏感といえば、風が情報を運んでくるという考え方が昔からあったからだ。どこから来たのか分からないが、ほのかな消息を「風の便り」という。風評、噂、伝聞の類は風が運んでくるわけだ。つまり風は、当世文化の最先端をいくメディアによる情報伝達活動の先駆者といえる。インターネット愛好者が本家元祖としての「風の神」祀っても、別にバチは当たるまい


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4.リフレッシュ <2002年10月22日>
 始末に困るのは精神的な疲れだ。風呂に入りビールをひっかけてぐっすり眠れば、肉体的な疲れはとれる。だが精神的な疲れをとるのは、そう簡単ではない。ぐったりした疲労感を回復するには、生活パターンを変える必要がある。
 精神的な疲労がなぜ溜まるかというと、ストレスに対処する体内のメカニズムが、現代のスピードの速さに付いていけなくなったからだろう。このシステムは自然のリズムに合わせて生活していた農業時代から、そう変わっていない。「和時計」のリズムだと考えればよい。和時計とは大変優れたもので、日の出と日の入りを読み込んで、一刻と昼夜の長さが毎日変わった。体内のシステムも和時計のように、自然のリズムに合わせることでストレスを溜めないようにしていたのである。
 しかし現代は全てがデジタル化されているので、自然のリズムでは対処できなくなった。これが大きな軋みを生んだ。精神的ストレスが強まり、なかなか精神的疲労がとれない理由だ。そのため、精神的疲れの解消に必要なのは、自然のリズムを取り戻す長期のリフレッシュとなる。ささやかな夏季休暇中は、ケータイを投げ捨て仕事も忘れて、日の出に起き日の入りに眠る生活だ。


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3.会議 <2002年10月21日>
 「会して議せず、議して決せず、決して行わず」とはつまらん会議を言い表す言葉となっている。頻繁に会議を開くが、なかなか決まらない。よしんば決めたにしても、約束が守られず実行されない。言いっぱなし、やらせっぱなしで結果の追求が曖昧になる。それなのに、何でそんなに会議を開きたがるかというわけだ。
 日本の会社は「会して議せず」がやたらと多いが、その理由は組織間に由来する。欧米型組織と比較するとはっきりする。あちらは人間を機械のように扱う組織観だ。決めるのはトップ。下はこれだけが君の任務で、このマニュアル通りにやっていればよろしい、となる。自分の任務を全うすれば、他の部署のことなんか知る必要もない。組織とは本来そういうものだが、日本人は自分に関係ないことでも知っていなければ気が済まない。
 隣がやっていることが分からないと、自分が除け者にされたような気になるため、日本人は隣のやっていることに首を突っ込みたがる。自分が全体の中でどういうことをやっているのかを知らされないと、ヤル気が出ないし、ヘソを曲げる。そのため根回しが必要になる。自分の任務とは関係ない会議にも顔をだすのは、そのため。「会して議せず」の会議が横行する原因だ。


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2.情 報 <2002年10月20日>
 ”ヤフーショック”だ。米インターネット業界の優良企業・ヤフーの利益が「ゼロ」になるというニュースは、ネット業界に水を浴びせた。ネット業界は「赤字が当たり前」のところがあったが、数少ない黒字企業だったヤフーでも利益がゼロになるくらいだから、後は推して知るべし。利益を出すのが難しいのは、その理由がある。
 財力の基盤には三段階がある。第一段階は不動産。封建時代まで土地を所有することが財力の基盤だった。お殿様のお城は財力の象徴だ。第二段階が動産。資本主義が発達すると、お金が土地にとって代わった。お金は持ち運びができ、あらゆるものに転化できる融通性をもつ。お金を所有し、動かすことが財力の基盤になった。そして今、第三段階の財力基盤として情報が登場した。不動産でも動産でもない。情報と表現するしかないものだ。
 情報の特徴は土地やお金と違う。いくら消費しても減りはしない。皆に分配したからといって、分け前が少なくなるわけでもない。しかし情報の価値は、それを独占した場合は最大になるが、多くの人に分けたら誰でも知っている情報になり価値が低下する。他人が知らない、貴重な情報をもっていることが財力を作るわけだ。だが、情報の独占が難しいため「赤字が当たり前」になる。


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人間鑑別法 2002年10月19日>
人生や仕事を指南するハウツー本がよく売れている。指南書の類は昔からあるが、いまだに記憶に残っているものがある。歴史学者の会田雄次氏が紹介していた戦前の人間鑑別法だ。鬼の居ぬ間に社員が集まり雑談している最中に、うるさい上司が戻ってきた時の各人の反応だ。
 反応は7通り。@「じゃあ、打ち合わせ通りやろうな」とさも仕事のことを話していていたかのようにうまく逃げる者。A「バレたか」と笑いながら机に戻る男。B「すみません」と素直に謝りさっさと仕事にとりかかる者。C強情を張って、しばらく雑談を続ける者。D「イチローと新庄のどちらが好きですか」と上司を雑談に巻き込もうとする者。Eバツが悪そうな顔をしてもぞもぞと仕事に戻る者。F自分だけは雑談に加わっていなかったような顔をして書類をめくっている者。
 あなたが上司なら、どれを信用できると思いますかという問いだ。
調査では、嫌いなのは強情を張る者とうまくごまかす者で、良しとしたのは圧倒的に素直に謝る者だったという。面白いと思ったのはその問いの「正解」。
本当に信頼できる者は、悪戯を見つけられた子供のように「バツが悪そうな顔」をして、言い訳もごまかしもせず仕事に戻る者だ。Eを選んだあなたの人物眼は高い。


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