年賀状
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2002年新春。
ミサイルの数で国民の命を守れるわけではないと
世界が思い至ったはずの新年です。
さて、どっぷりネット社会につかる中で、とあるドラマ
(「四季・ユートピアノ」といいます)の再放送をきっかけに、
ネット上の知人からそのビデオテープを借り受けたり、
その演出家に敬意を表する東京のイベントのチケット
まで譲り受けるということをしてしまいました。
実は顔も知らなかった人からの善意にとまどいつつ、
インターネットが作り出す関係というものの可能性に
感激してしまったのでした。
その善意の知人がほぼ同業で同世代の男性であった
という一点を除いては。
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2001年、21世紀の春です
千年紀はもとより、たぶん次の世紀さえ見ることが
できないであろうことを思うと、たまたまみんなで越え
られたこの節目をもっとじっくり味わってもいいのかも
しれません。
さて、新世紀を記念したわけではありませんが、旧年
末に引っ越しをしました。これも、地価やら金利やらの
低下の賜物ではあるわけですが、地震によって「まと
まった土地」があちこちに生じたというローカルな事情も
見逃せません。
新しい家に見合った新しい生活はなかなかできない
のですが、CATV対応に伴いメールアドレスを変更いた
しました。
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2000年春。
ミレニアムのお祭り騒ぎよりも、コンピュータ
問題のほうが目立つ皮肉な世紀末です。(この
賀状も、きちんと届くのでしょうか。)
変化のない日々の暮らしにいると、2000年も
ただ通り過ぎてしまいそうですが、それでも、
何かが終わり何かが始まるという感覚があるのは、
高度成長時代に刷り込まれた「夢と希望の21世紀」
のイメージのせいなのでしょうか。
実は、まだ20世紀の2000年という年に、私たち
は何を終わらせ、何を始めることができるので
しょうか。(まだ、人権講座モードなのです。)
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1999年春。
4月に公民館に異動したからというわけでも
ないですが、いまごろになってパソコンを購入
しました。まだまだメール遊びのみの入門篇です
が、電子メールの"うめくようなつぶやき"すら
どこまでも届けてしまう可能性は、なかなかの
快感であります。
その一方で、電話線がそのまま「へそのお」に
つながっている胎児たちが羊水カプセルに入った
まま通信を続けるという醜悪な図も浮かんで
きました。(便利を素直に喜べぬのは老化か。)
で、この賀状がそのパソコンで制作されている
かというと、実はまだ、住所録の関係で以前から
のワープロを使用しているのでした。
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1998年新春。数名のリクエストにお応えして
震災だよりPART2です。
あたりは、すぐ建てたプレハブ、塗り直し建て直し
の新しい壁、突然ある小さな駐車場、乱雑な更地が
平気で混在する不思議な街です。
家賃無料だが薄っぺらの(あるいはその逆の)仮設
住宅の人口は半分以下にはなっているものの、住み
続けたい人も含め様々な意味で生活する力の弱い
人が残されています。
新聞は思い出したように仮設派と県外移住派が
不遇さを競い、孤独死という名の仮設独居者の死を
理由を問わず数え続けています。
それでも、仮設店舗にポンテリカ(<-)と名づけて
みたり、元町高架下が女子高生御用達のファッション
街になっていたりで、復旧しきれぬ中でのしたたかな
復興は続いているようです。
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1997年春。
中断していた徒歩旅行を再開し、なんとか下関
までたどりついたこと。住所のない地震報告を
出したため、一部で行方不明の噂が出たらしい
こと。一年半たって前の課の臨時職員が地震で
亡くなっていたのを知ったこと。猫路と人路が
交錯したせいか、一時妙に野良猫がなついたこと。
LPをMD化していて、20年前の歌声の青春が幼く
さえ感じてしまったこと。50歳の北山修を筆頭に
茶木みやこ・大貫妙子・谷山浩子と(客席も)40歳
以上のコンサートばかりにいったこと。「スワ
ロウテイル」の妖しい気分よりも、「南京の基督」
の哀しいせつなさが勝ったこと。よしなしごと、
ざわめいて。
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地震とは直接関係なく、9月に祖母が亡くなり
ました。そんなわけで、年賀状はお休みです。
かの地震は、一時的に物を壊し、二次的に物に
形どられた社会の日常を壊し、三次的にそれらを
信じこむ私たちを壊していきました。「下部構造」
などという、なつかしのフレーズが思い出され
ます。
地震が否応なしに壊していった私のこだわりが、
捨てるべき古着であったのか、なけなしの一張羅で
あったのか、評価のむつかしいところです。テーマ
はみゆきの断崖でしょうか。
とりあえず今は、皆さんに良き一年が訪れること
をお祈りしておきましょう。もっとも、祈るだけでは
どうにもならないことは、この一年でかみしめる
ほどにわかっているのだけれど。
(1996年1月)
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1995年5月。遅くなりました。実家はもう
ありませんが、人間は無事でした。
客観的な状況は、外にいる人のほうが
くわしいでしょう。つらい話ならいくらでもある
し、うれしい話もたくさんありました。行政も
個々の職員は手探りの中からずいぶん頑張った
と思いますが、組織としてはもっとやれたことも
否定できません。「次にきたときはもっとうまく
やれる」という、笑えない冗談もあります。
言いたいことは本にするほどありますが、他市
からの応援とボランティアには感謝一杯。手品の
ようなことを無責任に語るマスコミには恨み言
一杯とだけ申しておきましょう。
語り尽くせぬ時は、短詩形にひかれます。
サイレンに囲まれ 白む夜が響く
土まみれの救急車 まだ走り止まず
ドライアイス おまえの遺骸ともう
5日
黒塗りの社旗が 給水車を止める
ガレキに立つ 青空を裂くヘリの音
寒風の更地に 今日も花があり
何もなし 更地は納骨後のごとく
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1995年新春。
一昨年の秋の土曜日に、ふと国道二号線を三宮
まで歩き出し、そのまま歩きつないで広島県下まで
進んでいます。
そうした中で痛感するのは、現在の国道は物流の
ためだけに削られた溝のようになっているという
こと。目にうつるのは、車関係の店と車で遊びに
いくためのパチンコ屋・書店・レストラン・ホテル
・ カラオケボックスばかり。
もっとも、道はなくならないので、並行して続く
旧道らしき道に入ると、とたんに鎮守の杜や石碑、
用水路と眠る老犬、軽トラックの曲がり角などに
会えるので嬉しくなります。
そして、泊までして大がかりなわりに単純な楽しみに
満足しながら、あまり進歩のない去年の続きの今年
を続けているのでした。
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迎春、1994年。お元気ですか。私は元気です。
世間では、10年分ほどのトップニュースが続き、
かえってささいなことが目にとまります。
田中角栄追悼TV特集のBGMに中島みゆきの
「まつりばやし」が使われたこと、それが恋人で
なく父との別れの曲であったことも含めて。ある
いは、テレビドラマが瞬間風速的に森田童子を
はやらせたこと、しかも彼女がもう何年も唄って
いない「幻の歌手」とされていたこと。
もっともこれは、少し前に読んだ気がしていた
ライブ評が、実は学生時代の後輩の同人誌のもの
で、記事自体がもう10年も前のものだったからで、
記録ではない記憶のあやふやさを思い知らせて
くれるようでもあります。
そして、そんな記憶の自分勝手ないい加減さと
いうものが、それはそれで結構うまくできている
ものなのかもしれないとも考えています。
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