*** 少女マンガ・ページ別読書案内・16p-2 ***
30年前の若者が自分自身を許した瞬間
----樹村みのり「こうふくな話」を読む(フリーペーパーハイネno2・2001.5.20に加筆)
20年ほど前には若者であった私にとって、
30年前に若者であった人たち、いわゆる団塊の世代はずいぶん気になる存在でした。
それは、「突然、ラジオから流れてきた」と
熱く語られるビートルズであったり、全共闘に代表される政治の季節であったり、
Tシャツとジーンズで歩き出した女性の姿であったりしました。
もちろん、少女まんがの世界では「24年組」であり、
樹村みのりも地味な存在でしたが、その一人として数えられておりました。
その世代の人たちは、本気で若者たちの力で世界を変えられると考え(ていたように見え)、
学生運動という力の闘い(での敗北)の後、社会のあらゆるところに入り込み内側から変えていこうとしてい(たように見え)ました。
そして、現に「24年組」は、「今の少女まんがでいいのか」と積極的に読者に語りかけることを通して、
結果的に少女まんがの変革に成功しました。
そして、ちょうど受け手の世代であった私
は、
自らの熱い思いをエネルギーに変えつつ、既成の「間違った世の中」に次々と立ち向かっていく彼らの姿勢に、
(時にそのエネルギーにひきづられているような様子も含めて)
うらやましいような、とても真似ができないような、複雑な心境でおりました。
16pの可能性の一つに、エッセイまんがというものがあります。
この作品は、エッセイという気安さというより「私小説」と呼ぶ方がいいような青春の重さを含んでいます。
たとえば、冒頭の述懐です。
むろんわたしは そこに至るまで
手をこまねいて いたわけでは けっしてなく
樹村みのり本人と思われる「わたし」の言葉です。
やや理屈っぽい言いまわしですが、もてあまし気味な自分自身をせいいっぱい立て直そうとしている、あの時代らしい言葉遣いです。
「やたらうろうろし やたら悩み 貧しげにいじましげに 時おり絶望し 時おり休息を とったりしながら」
と続く行き場のない時間をすごしていた「わたし」は、
たまたま自分の下宿の窓越しに、まだ学校にも行かないくらいの年齢の女の子が向かいの部屋にいるのを目にします。
その女の子は、「とつぜん 一方のすみにむかって かけだし」
「すみへつくや くるっと ふりかえって またもとの すみへと かけもどって くるのでした」。
引っ越してきたばかりの何もない部屋で、
繰り返し繰り返し「かけていってはもどり」を笑顔で続ける女の子を見つめる「わたし」は、
たちどころに「こうしたことの すべてを 起きたことの すべても 理解して」しまい、
「見ていることが できなくなって しまいました」。
この物語の中で何かが行われていたとすれば、これだけです。
「わたし」は、女の子の中に「こうふく」を見つけ、「それ」が確かに「わたし」も以前に持っていたもの
であり、
いつのまにか失っていたということに気づかされたのでした。
そして、なにより「わたし」が「理解した」ということの意味は、
子どものときに持っていたはずの「それ」を失ってしまっているという事実であり、
「わたし」がそんな自分自身を許したという事実なのです。
だから、この物語は、一見「こうふくな女の子」を見つけた話に見えますが、
むしろ自分自身を許すことができた「こうふくなわたし」の物語です。
絵柄はもう、なつかしさを通り越した古くささをも感じさせるのですが、あえて紹介してみたくなりました。
それは、私もまたそうであったように、
今の若者も、他人や自分に「窒息しそう」な思いをかかえて生きているような時代があるにちがいないと思うものですから。
* 「こうふくな話」(1971/「悪い子」・ヘルスワーク協会・1999)
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