フジマルをぶった斬る



フジマルというのは、全日本プロレスの丸藤正道(まるふじ なおみち)のニックネームで、なぜか三沢が「フジマル」と呼んでいるのが、その語源です。
入門から約半年でデビュー(早い!)し、その跳躍力と動きのキレで、前座戦線を沸かせています。
目標とするレスラーは三沢で、三沢本人にも期待されており、よく三沢のセコンドについています。


ところが! この選手のこと、私は全く認めてません…。

一番嫌いなところは、「大技の前のモーションが大き過ぎる」という点です。

彼は色々とトリッキーな空中技を持っているのですが、大技であればあるほどその前のタメの時間が長いのです。これでは、
「あぁ、大技だすんだな」
というのが観客に分かってしまいます。
見ている側ですら分かるわけですから、対戦相手が“受けてやっている”というのが露骨に表われてしまうのです。

あと、金丸でないと受けれない技というのが多すぎます。金丸と丸藤は体格的にもスタイル的にも似ているので、シングル・タッグを問わずよく対戦しているのですが、あの二人の攻防を見ていると、闘龍門のプロレスを連想してしまいます。
全日本の観客がルチャ・リブレ的なムーブを望んでいるとは思えませんし、そういう方面では闘龍門がもっと高いレベルの動きを見せています。もっと一般的なプロレスの型にはまった動きをして欲しいところです。


さて、丸藤のインタビューを読んでいると、「全日本のことをよく知らない奴に『基礎ができてないから飛び技で誤魔化している』なんて思われるのは、すごく腹が立つ」というような発言をよくしています。
たしかに、メジャー団体全日本でデビューを果たしているわけだし、入団前はアマレスをやっていたわけですから、『基礎を知らない・できない』ということはないと思います。

しかし、基本的なムーブだけでお客を納得させる選手と、派手な技でお客を納得させる選手とでは、前者のほうが優れたプロレスラーであることは間違いないでしょう。
アームホイップ、ドロップキックなど、基本的な技でも光るものをもっているわけですから、もう少し使う技についても考えるべきでしょう。


当コラム始まって以来の辛口でしたね(笑)。



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ライガーvsサスケを読み解く



ライガーvsサスケのシングルマッチといえば、言うまでもなく日本のジュニア界の頂上対決であり、名勝負・好勝負を繰り広げています。
ここではその対決、全7回を見てみましょう。


1回目 ・ 94年4月16日
両国国技館 スーパーJカップ1st.準決勝
二人の対決で一番有名なのはこの勝負でしょう。今や伝説となった第一回Jカップでのベストバウトです。
試合は中盤から、ライガーの執拗な腕攻め、サスケの空中殺法、ライガーの大技ラッシュ、と怒涛の展開をみせ、技が尽きてしまったライガーをサスケが一瞬のフランケンシュタイナーで丸め込んで、サスケが決勝に進出します。
ライガーの雪崩式フランケンを、サスケがさらにエビ固めで返したときの両国国技館の沸きようは尋常ではありませんでした。
まさにジュニアの新時代を切り開いた、歴史的な勝負といえるでしょう。


2回目 ・ 94年7月9日
札幌中島体育センター
Jカップで敗れたライガーがリベンジを賭けた2回目のシングルマッチです。
前回は一瞬の隙を突かれて敗れたライガーでしたが、今回は同じ轍は踏みませんでした。逆にサスケの決め技不足がクローズアップされる形となり、ライガーの完勝という形になりました。


3回目 ・ 96年4月29日
東京ドーム IWGPジュニアヘビー級選手権
この日のメインイベントは高田vs橋本のIWGP戦。つまりIWGPヘビーのベルトは流出していたのです。その中で組まれたジュニアのタイトルマッチでした。
内容は東京ドームのタイトルマッチにふさわしい試合になり、最後はサスケのタイガースープレックス(サスケの裏18番技)でサスケの勝利。この時点で新日本のIWGPのベルトが2本流出したことになった。


4回目 ・ 96年6月1日
ロサンゼルス
猪木が主催したロサンゼルスでの平和の祭典での試合です。アメリカのマニア達は、この試合を一番の目当てにして、チケット(バカ高かった)を買ったそうです。
アメリカでも日本と同じような攻防を展開しましたが、サスケがアメリカでの試合は始めてだったためか、やや動きが硬く、少しアッサリとした形で試合は終了しました(ライガーの勝ち)。


5回目 ・ 97年4月12日
東京ドーム ジュニアヘビー級8冠選手権
今は懐かしい8冠選手権の試合。初代王者のサスケが、負傷のために納得のいく防衛戦ができなかったということで組まれた試合。
試合は期待に違わぬ好勝負となり、最後は雪崩式垂直落下ブレーンバスターでライガーの勝ち。が、サスケもフェニックススプラッシュを出すなど、意地を見せました。


6回目 ・ 98年8月8日
大阪ドーム
復帰戦で右肩を負傷して、再び欠場に追い込まれたサスケが無理を押して出場した試合。
試合はライガーが終始ペースをつかんで一方的に攻めまくるが、最期は一瞬のスキをついたウラカン・ラナでサスケの勝ち。
試合後、ライガーは「あんな体調で出てくるな」とサスケを非難し、サスケも「勝ちは勝ち。負けた人に言われる筋合いはない」とライガーに噛みつきました。試合よりも、試合後の舌戦の方がマスコミを賑わせました。


7回目 ・ 98年9月10日
大宮市民体育館 IWGPジュニアヘビー級選手権
約一ヶ月前の大阪での試合のリベンジマッチとなった。今回はベルトが賭けられることに。
サスケはこの時点からヒールとなっていましたが、以前と違うのはマスクの色と急所蹴りを使うようになっているだけで、内容的にはこれまでのライガーvsサスケとそれほど変わりませんでした(逆に言うと、それほど印象に残るような攻防はなかった)。
結局はライガーが勝ち、試合後にセコンドについていたみちプロの選手達にマイクアピールをしました。試合そのものよりも、マイクアピールの方が大きく紹介されてましたね。


こうして振り返ると、6回目と7回目の試合がいわゆる「ハズレ」だったような気がします。内容的にも、試合までの盛り上がりでもイマイチでしたから。
せっかくライガーvsサスケというブランドを確立していたのに、98年の2回の試合(しかも1ヶ月の間に2回)で、このカードの価値が下がってしまいました。97年までならペガサスvsブラックタイガーに匹敵するだけのものを残していただけに、実に残念です。

では、なぜ6回目と7回目はイマイチな内容になってしまったのでしょうか。
サスケの体調が悪かった、サスケがヒールに慣れていなかった、等も大きな理由でしょうが、ここで私が挙げたいのは、
「各団体で試合内容を高め過ぎた」
というものです。


94年のJカップ1st.で空前のジュニアブームが起こり、オールスター戦とでもいうべきものまで開催されるようになりました。
しかし、そういったブームが長く続くことはありません。ブームのほとぼりが冷めると、各団体は半鎖国政策をとり、各団体での試合を大切にするようになります。
その結果、ライガー&サムライ&カシンvs金本&大谷&高岩の6メンタッグマッチは毎回素晴らしい内容になるようになりました。新日本での試合順は休憩前後なのですが、各会場を大いに沸かせていたそうです。会場にいる観客を満足させるのがプロとしての仕事でしょうから、この6人はプロとして最上のことをしています。
みちプロの正規軍vs海援隊DXも素晴らしい内容を毎回残すようになりました。特に「竹脇(96年10月10日のみちプロ両国大会)」のセミファイナルで行われた一戦はあまり有名ではないですが、みちプロの歴史に残るような好勝負でした。

というように、新日本とみちプロは、独自の路線を組むようになり、好勝負を連発するようになるのです。
しかし、ここに大きな落とし穴があります。


この好勝負連発状態は、「お互いに手の内を知り尽くしている」同士でなければできない内容なのです。そのような試合を、いくらライガーとサスケといえども、久しぶりの対決では見せることができなかったわけです。
また、そのように手が合いにくい中でも、我々見る方が、日常の6メンタッグ以上の内容をライガーvsサスケに求めてしまうので、余計に期待外れとなってしまうわけです。
それと、新日本の内容がどちらかというと技をエスカレート(雪崩式とか垂直落下とか)させる方向に進化していったのに対し、みちプロがタッグマッチでの目まぐるしい攻防を重視したのも、手が合わなかった原因でしょう。


これと同じようなことは、全日本プロレスについても言えると思います。
もしも5強クラスの選手が他団体の選手と対戦した時、私がここで述べてきた理論(?)によると、いつも全日本でやっているような好勝負とはなり得ないはずです。
それでも好勝負を作り出すことができたのならば、それはプロレスセンスが抜群であるということになるでしょう。三沢か秋山ならやってのけそうな気がしますが…。



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DDTの名手



「フロントヘッドロックから相手の首を垂直に落す」
これがDDTという技です。
考え様によってはひどく単純で、技術の入りこむ余地など無いようにも感じます。しかし、そこはプロレスの技、しっかりと奥が深いのです。


DDTの元祖はジェーク・ロバーツという選手です。
日本ではそれほど実績はありませんし、アメリカ(WWF)での活躍もどちらかというと“ザ・スネーク”としてのキャラクターの方がセンセーショナルに伝えられています。

しかしロバーツは、いわゆる“職人肌レスラー”の典型的なスタイルなのです。のらりくらりとしたスタイルにも基本技がキラリと光り、カウント2.9は必要とせず、大技も必要とせず(あえて挙げるなら時間差ラリアットくらい)、試合開始から山のような盛り上がりを作っていき、フィニッシングムーブだけは誰にも真似ができない。レスラーとして完全に一つの型を持っています。
そのロバーツのオリジナルフィニッシュ技がDDTです。

やはりロバーツのDDTは絶品で、入るタイミングしかり、落下するスピードしかり、落す高さ(ロバーツは割と長身)しかり、未だにこの選手を超える使い手は現れていないと思います。
また、受ける側の受け身の取り方で見栄えが大きく影響される技ですが、ロバーツは受ける相手を選ばず、常に完璧に決めていました。


他に私の独断と偏見でDDTの名手を挙げるとするならば、レイヴェン、 ブレット・ハート、 ザ・ロック、 小川良成、等ですかね。

レイヴェンはDDTにはかなり強いこだわりを持っているようで、豪快な一発を見せています。
が、上背がないのと、割とサラリと使っちゃう(ことが多々ある)あたりが、ロバーツより劣る点でしょうかね。ま、サンドマンとの抗争では素晴らしい一撃を見せていました。

ヒットマンは昔からあるような技を多く使う選手なので、DDTという80年代以降の技を使うのは少し意外という気もします。
多くのDDT使いは引き抜くようにして決めるのに対し、ヒットマンはフロントヘッドロックの体勢からスライディングを出すかのような形で決めます。これはアメリカヘビー級の中では体の小さなヒットマンらしい形といえるでしょう。

ロックと小川は形がソックリで、勢いをつけて後ろに一気に倒れるDDTはかなり豪快です。



さて、私が「究極のDDT」と信じてやまないのは大谷晋二郎の「スワンダイブ式DDT」です。
W.ペガサスと争ったWCWクルーザー級初代王者決定戦でみせた一撃は、まさに究極のDDTでした。それ以来もう一度だけ使ったとか使わなかったとか……。是非また見せてもらいたい技ですね。



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天龍の謎



天龍が全日本プロレスを離脱して、SWSへと移籍した理由は何だったのか?
これの答えって一体何だったのでしょうか。


馬場さんがよく言っていたのは、「契約金に目がくらんだ」というものです。マスコミの後押しなどもあって、これが最大の原因だろうと言われています。
しかし、馬場さんも天龍革命は高く評価していましたし、離脱後でも「鶴田とは違う型を作った」とレスラーとしても高く評価しています。鶴田も「あいつに後ろから蹴飛ばされて、俺は怪物になった」と言ってますし、元 天龍同盟の川田・小川も「尊敬できる人」・「天龍さんに受けた影響が一番の大きかった」と言っています。
他の全日本の選手からも、天龍を悪く言うことは聞いた覚えがありません。

ということから、「メガネスーパーが出したお金だけが原因じゃないのでは」と考えられます。
そして、他の原因として挙げられているのは、
1、全日本での待遇に不満があった
2、元子夫人との間に確執があった
3、鶴龍対決乱発に不満を持った
4、輪島の待遇があんまりに酷かった
5、阿修羅・原の解雇が納得できなかった
等です。
では、一つ一つ見ていきましょう。


1、 全日本のギャラは「馬場は別格中の別格、鶴田が別格、天龍以下はその他大勢」というようになっていたらしいのです。天龍革命以前ならまだしも、全日本の主役に躍り出た天龍が、昔の“大きく遅れるNo.3”の待遇のままで、天龍はプロとして不満を持っていた、というものです。
また、年功序列型の待遇にも不満を持っていたともいわれています。

2、について。元子夫人は基本的には表に出ない人なので、一ファンの目からは詳しいことは分かりません。よってこれは省略。

3、はある本で読んだのですが、天龍曰く「俺が全日を辞めたのはお金とか待遇とか言われているけど、そんなもんじゃないよ。体を張って名勝負を創ってきた鶴田戦を“コレをやりゃ客が入るだろ”って営業的に組んだからだよ。その時“あーっ、この会社はレスラーの気持ちなんて全く分かってくれないんだな”って思ったんだよ」とのことです。
天龍の最後の試合が90年4月19日の鶴田との三冠戦(12分32秒、バックドロップホールドで鶴田の勝ち)だったことからも、これはなかなか説得力のあるものだと思います。

4、天龍と言うのは、レスラーとしては遅咲きの部類に入る選手です。プロレス界を代表するような存在になったのは平成になってからです。角界出身ですが、プロレス界でもしっかりと下積みを積んでいる選手なのです。
一方の輪島は“横綱出身”ということだけで、馬場の甘やかし待遇を受けることとなります。テレビの視聴率という点では輪島は功績があるかもしれませんが、輪島の待遇によって、他の選手が不満を持ったとしても不思議ではありません。

5、天龍の盟友である阿修羅・原は88年世界最強タッグ決定リーグ戦の開幕当日に唐突に解雇を発表され、全日本を去ることになります。理由はハッキリとはされていませんが、原本人の借金が原因だと言われています。
国際プロレス出身の人に多いのですが、原は実に男気のある人で、天龍も信頼していました。その原が突然に解雇されたわけですから、天龍のショックも大きかったことでしょう。


こうして見てきましたが、ハッキリとしたことは結局わかりません。
おそらくはいくつもの原因が重なったわけでしょうし、裏側のことがファンに全て知らさせれるようなこともないでしょう。

まあ、一つ言えることとしては、他の移籍選手(折原とか北原)はともかく、天龍は全日本を離脱してからも十分に輝いている。ということでしょうかね。


追記
天龍の自叙伝が出ていまして(題名失念)、そこでも当然この話題については触れられています。
そこでは、馬場が早々に天龍が離脱すると決めてしまったので出て行かざるを得なかった、SWSが最初聞いていたのとは全く別物だった、という風に書かれていました。



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田中将斗を見よ!



今の日本人プロレスラーの中で、「日米を股にかけて」という表現が最も当てはまるのは、FMWに所属(? / 今は違うかも)している田中将斗選手でしょう。
FMWだけでなく、ECWでも活躍しているのですから、その実力はもっと高く評価されてもいいと思います。


まずは、田中のプロフィールを見てみましょう。
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幼いころからプロレスラーに憧れ、プロレスラーになるための準備として高校ではラグビー部に所属する(アメリカのレスラーにアメフト出身選手が多いことにあやかって)。が、ここでラグビーの魅力に取りつかれ、高校卒業後は大手企業のラグビー部に進んだ。
その後、何とはなしに観たFMWの試合にて大仁田厚のファイトに感銘を受け、FMWに練習生として入門。ターザン後藤の厳しいコーチに耐えて、93年7月23日にデビュー。持ち前のガッツと練習熱心さでメキメキ頭角を現し、ジュニアリーグ優勝(金村を下して)、ハヤブサ欠場により暫定エースに、川崎球場大会のメインに出場、Mr.ポーゴに勝利、と飛躍的な成長を遂げる。
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ここまでのプロフィールを見ると、ある選手が思い浮かんできませんか? 主な要素を挙げると、
1、練習熱心
2、無名の練習生として入門
3、社会人を経験している

………そう、全日本の小橋健太ですね。
他にも、マイクアピールはあまり上手じゃない、常に完全燃焼のファイトをする、母親の影響を強く受けて育った、などの点が田中と小橋の共通点だと思います。結構共通点の多い二人ですよね。


さて、その後の田中はFMWのトップの一角となったので、そう詳しくは紹介する必要もないだろう、と勝手に判断して、主だったことのみ書いていきます。
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リングネームを本名の田中正人から田中将斗に変更したのは96年11月、 グラジを破って二冠統一王者になったのは97年9月28日、 ECWに初参戦したのは98年3月、 半年間のECW遠征中にタッグ王座を奪取したのは98年11月1日、 ECWヘビー級は99年12月17日に二度目のECWタッグ王座は99年2月26日にそれぞれ獲得。
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こうしてこれまでのキャリアを振り返ってみると、十分に一流のレスラーとしての資格を持っていると言えます。が、何か一つ壁を突き破れてない(超一流とは呼べない)ような印象があります。
その原因の一つとして、「メジャー団体を経験していない」というのがあります。新日本,全日本,WCW,WWFのいずれにも出場経験が無いということが、知名度や絶対的な実績の点でマイナスに働いているわけです。

田中のファイトを見ていると、全日本プロレスを研究していることは明らかですし、スタイル的にも十分に適合しているでしょう。FMWと全日本(あるいはECWと全日本)が現在どういう関係にあるのかはよく分かりませんが、是非とも田中に全日本参戦の機会が与えられることを望みます。
ただ、1973年2月生まれとまだまだ若いので、そう焦る必要はないかもしれませんが。




田中のシングルでの名勝負を独断と偏見で選んでみました。

96年8月1日、W★ING金村戦
会場は伝説の“汐留”。これは大仁田の後継者争いといった様相の試合で、破天荒さを混ぜつつも、お互いが力と力・技と技をぶつけ合う好勝負となった。私はこれを見て金村を見直しました。
確か一年後には電流爆破マッチに変えて同所で再戦してたはずです。

97年9月28日、グラジエーター戦
川崎球場での試合。グラジはいつも通りに強かったが、この日は田中も強かった。一番の衝撃シーンは場外の机めがけてのパワーボムの打ち合い。特にグラジはライガーボムをやるというとんでもないことをしていました。
この頃からもライバルだったが、現在はECWヘビー級を巡って激し過ぎる抗争を繰り広げている。

98年3月13日、ハヤブサ戦
札幌中島での試合。雁之助への挑戦権を賭けたトーナメントの一戦。ドッシリとした試合展開で、両者の持ち味を100%発揮していく。最後は田中の気迫も実らず、ハヤブサの勝ち。
結局ハヤブサがトーナメントを優勝して雁之助に挑戦、ベルト奪取に成功。その防衛戦の相手に田中が浮上し、2ヶ月後の再戦へと繋がっていく。

98年5月19日、ハヤブサ戦
後楽園ホールでの試合。FMW正規軍同士の対決は、ホールが26分間沸きっぱなしの壮絶な試合になった。紙一重の差でハヤブサの勝ち。
と偉そうに言ってるが、筆者未見(笑)。まあ、もっと大きい会場で実現してほしいカードですね。

99年11月23日、冬木戦
横浜アリーナのセミファイナルに行われた電流爆破マッチ。冬木は電流爆破初体験だったからか、被爆回数が多かった。最後はエルボーとラリアットの打ち合いとなるが、田中が押え込んで勝ち。


名勝負は以上ですが、個人的に田中の一番の名場面だとおもっているのが、96年2月23日後楽園大会でのマイクアピールです。
FMWvsW★INGの金網マッチの試合終了後(田中が金村をローリングエルボーでフォール、好勝負でした)キニョネス軍が突如乱入。乱闘が終わった後の田中のマイクアピール、
W★INGだろうと、プレルトリコ軍だろうと、売られたケンカは買ってやる。FMWを潰せるものなら潰してみろーーっ!!」
これは最高にカッコよかった!!
ハヤブサは欠場中、田中のパートナーはリッキーや吾作、ハッキリ言って先は真っ暗な状況でした。その中で完全に大仁田が乗り移ったようなマイクアピール……。いや〜、しびれましたね。



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