ケンドー・カシン語録



「現在の日本マット界で、コメントが一番面白いのは誰?」と問われれば、私は直ちに「ケンドー・カシンである」と答えます。
ここでは、そのカシンのコメントを一気に紹介し、それに関する私の感想や解説をちょこっとずつ書いていきます。


96年12月、遠征先のドイツ・ブレーメンで受けたインタビューでの発言
ドイツっていうのは、天気悪いし、人は愛想ないし、腹立つことも多いね」
マスクマンになったのはオットー・ワンツ(プロモーター)の要請だよ。ケンドー・カ・シンというリングネームも全部ワンツが考えた。カ・シンの意味は分からない」
オレがどんなレスラーになるかっていうのはね、オレが決めることじゃなくて、見てるお客さんがイメージ膨らませて、試合を通じて決めることだし、オレはもう、リングに上がってオレのレスリングをするだけ」
これは週刊プロレスからの抜粋ですが、おそらくはケンドー・カシンとしての初インタビューではないでしょうか。
3つ目の発言はなかなか重いですね。我々ファンは、しっかりイメージを膨らませなきゃならないようです。


97年11月30日、大谷とのタイトルマッチ前哨戦を制す。
大谷、チャンピオンは弱いんじゃねえか?」
大谷、怖かったらオヤジをセコンドにつれてこいって」
お前らどうせカットするんだろ。だったら撮るな」
これは、IWGPジュニアに初挑戦する少し前の発言です。
一つ目は、当時「チャンピオンは強ぇんだよ!」と言っていた大谷への強烈なカウンター。
そして二つ目こそカシンのセンスが炸裂している台詞です。大谷の父親・裕明さん(熱血オヤジでしたね)について言及するなど、並のセンスじゃできることではありません。天才です。


98年5月21日、故・福田選手との対戦後
日大と早稲田じゃ、(頭を指して)ココが違うから」
カシンは早稲田大学人間科学部出身です。


98年6月、アメリカで受けたインタビューでの発言
はじめ日本に帰ってきたとき、みんなが素顔でやるものと思ってた。でも、オレ自身のなかで、せっかくヨーロッパでマスクをかぶってやってきて、現地でもウケてたし自信ももった。そう思って帰国して最初の試合でみんなに笑われた。
その笑われた時点でマスクをずっとかぶろうと決心した」
UFOに参戦したらマスクを脱いでやるかもしれない。ギャラ次第だ」
これは一つ目の発言に注目。ここでも取り上げましたが、カシンがマスクマンを続けているのはこういう理由のようです。


98年8月、安良岡と仲間割れして、
何だあの役立たずは。粗大ゴミとして捨てるぞ」
この他にも、「(ベルトを)燃えないゴミの日に捨てる」と発言するなど、ゴミの捨て方にはうるさいようです。


99年2月、マサ・サイトー引退記念写真展でのミニトークショーでの発言。
(カ・シンがカシンになった理由は)オレは最初から・なんか入ってないサインをしてた。あれは勝手にマスコミが・を入れたの」
中西とはライバル? いや、ライバルじゃない。親友(笑)。ホント、ホント。中西学が新日本プロレスにはいるって言ったときは本気で(新日本を)辞めようかなと思ったんですけどね。プロレス入ってからは、あいさつぐらいはしたことある。後はもう、以心伝心で伝わるから」
カシンの得意技(?)の一つが中西いじり(笑)です。素晴らしいですね。


99年3月17日、試合後、
オレは剛竜馬や中西学にはならない」
この発言の少し前に、金本の「オレは剛竜馬、小林邦昭にはならない」という発言がありました。それをパロってみたわけです。金本は、ジュニアの脇役では終わらない、と言っているのですが、カシンは、バカにはならない、と言いたいようですね(笑)。


99年3月20日、G浜田&Eサムライ組からIWGPタッグ王座を防衛後、
(認定書を破るのは)オレの勝手だろ。オマエにとやかく言われる筋合いはない」
グラン浜田、パートナーに娘連れてきた方がよかったんじゃないか?」
この頃は、ワグナーJrとのタッグでしたね。


99年5月21日、田中稔戦でアルゼンチンバックブリーカーを披露し、
今日はバカな技使ちゃったよ」
優勝したら、コソボの人達に給付金をやる」
実際に優勝し、実際に50万円を寄付したわけですから、えらいですよね。


99年5月22日、折原昌夫に勝利後、
今日の勝利は、ニ瓶組長に捧げるよ」
個人的には、カシンのベストコメントはこれだと思ってます。
ニ瓶組長とは、折原のマネージャーを脅迫した罪で(折原の告発による)逮捕されたレスラーです。カシンがそのことを知っているのも意外ですが、こんな形でコメントするなど、彼にしかできないことでしょう。
ちなみに別の控え室では折原が「腕が決まった瞬間、痛みが首まで走った。キングダムでの試合を思い出す。プロレス界にああいう奴いると怖い」と真面目なコメントを出しているのも、何とも可笑しいですね。


99年9月23日、ライガーを下してIWGPジュニアを初防衛、
うん、余計なお世話だ」
これは記者の「おめでとうございます」という声に答えてのもの。何とも素っ気ないです。


99年10月19日、ディーン・マレンコから初勝利も…、
さすが師匠だ」
94年のジュニアタッグリーグでコンビを組んで以来(当時は石沢)、カシンはマレンコのことを師匠と読んでいます。


99年10月20日、マレンコとのコンビでライガー・サムライ組から勝利。
タッグのベルトも獲れるけど、(マレンコの)スケジュールが合わない。とりあえず、ニシオ(中西学)と組むよりはいいかな」
カシン節、炸裂です。


00年6月5日、PRIDE出場について尋ねられると、
お前が出ろ、このバカ! テメーが出ろ(この後、蹴りを入れる)」


00年6月6日、スーパージュニア開幕、
今年も寄付するよ、勝って。それから地雷撤去! 地雷撤去!」
残念ながら、この年は優勝できませんでした。


00年7月9日、地元での主催興行終了後、
バカヤロー! 今はそれどころじゃねぇんだ。オレは興行の精算ををしなくちゃいけねえんだ。その金でお中元出さなくちゃいけねえんだ」
自分からコメントを誘っておきながら、これだけ言うとサッサと控え室へと入っていきました。


00年7月12日、PRIDE出場問題について尋ねられると、
知らねえ、俺にきくな。倍賞鉄夫にきけ、あの金の亡者にきけ」
す、凄すぎです。


00年12月23日、中西と注目のタッグ結成もやはり仲間割れ。
結婚おめでとう! 俺からのご祝儀だ」




と、素晴らしいコメントの数々を残しているカシンですが、PRIDE15には素顔で出場するわけで、素のカシンによる素のコメントというものを(当然、勝利のコメント)聞いてみたいですね。



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